第37話 赤い薔薇の香る先③
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その夜、どういうわけかアスルトとディルが私の部屋にいた。
「夕食を持ってきてくれたのは感謝するけれど、侍女の部屋に王子殿下とその近衛騎士がいるのはどうなのかしら」
呆れて言うと、床に胡坐を掻いたディルが「ははっ」と楽しそうに笑った。
「あんたの淹れる紅茶が美味いって話になって」
「ご命令いただけましたらすぐお淹れしてお運びいたしますわ? お部屋でよろしくて?」
返すと、今度はアスルトが微笑む。
「まあそう呆れないでくれ。話したいこともあったのでな」
「話したいこと?」
「そうだ。まずは俺たちの思い込みでハルティオン王国が揺らぎかけたのを救ってくれたこと、感謝する」
アスルトは椅子に座っていたけれど、それはもう美しくなめらかな所作で礼をした。
「ちょ、ちょっと。一国の王子が私に頭を下げるものではないわ!」
慌てて言うと、彼は頭を下げたまま真剣な声音で続ける。
「いや、本当に危機的状況だった。俺はディルを王子として立て、騎士団を味方につけるつもりだったからな。クーフェン派閥が懇意にしている騎士はそう多くない。けれど、うまくいったとして内紛になったかもしれない」
「それは……」
口ごもると苦い笑みを浮かべたアスルトが顔を上げ、ディルを見た。
「けれど、俺が失踪してディルが君を連れてきてくれたことで事態が良い方向に動いたとも思っている。そういう意味では切っ掛けになったアーリアには感謝したいくらいだ」
ディルは目を閉じ、彼の言葉を黙って聞いていた。
「君への依頼は俺を捜し出すこと。そしていまは母上に毒を盛った相手を捜し出すことだな。さて、そこでもうひとつ追加の依頼がしたい」
「依頼?」
ここにきて、なにを――。
そう考えたけれど、アスルトはきっぱりと言ってくれた。
「俺が地盤を固める、その手伝いだ」
「……」
バークレイ医師が言っていたことは正しいと思う。
アスルトは自身の言葉や信頼を以て人脈を作らねばならない。
そのうえで第一王妃様のご逝去を知らしめ、ブルードを糾弾し関所を護るのだ。
それはきっとアスルトが次代の王であることを示し、今後のハルティオン王国の平和にも繋がるだろう。たしかに私が願うことでもある。
けれど。もし私が思念を聴き、それを利用してアスルトが支持を得てしまったなら。
それはもう人脈とは言えない。ただの脅しだ。相手には思念の香りを聴かれてしまう恐怖と不信感だけが残ってしまう。
「アスルト、私は失せ者捜しの聴香師よ。それは無理な相談ね」
だから私もはっきりと告げる。
「貴方が自身の力で人脈を得なければ意味がない。簡単ではないでしょうけれど、貴方ならそれができると私は思う」
言い切った私に、アスルトが困ったように眉尻を下げた。
ややあって黙っていたディルが顔を上げ、アスルトを見る。
「俺もリィゼリアの意見に賛成だ。彼女が依頼を請けると言っても反対していたと思う。アスルト、お前わかって言ってるんだよな? それはリィゼリアの命を危険に晒すことだって」
「はあ……。まあわかってはいるんだが、ここまで否定されるとは。わかった。すまないリズ。うーん、ならほかの手を考えるか」
「貴族に会うなら直接行けばいいだろ。侍女長と母さんの件が片付けば俺も行くから。お前が来たらまず断られない」
「ああ、
ぼやくように言ったアスルトからふわりと思念が香ったのはそのときだ。
聴こえたのは〈困惑〉と〈失敗〉、〈思案〉と〈企て〉。
「んん? アスルト? 貴方なにか――んむ」
「リズ」
瞬間、アスルトは言いかけた私の唇に指先を当て、悪戯っ子のようににやりと笑う。
それ以上言ってはいけないという意味なのはわかった。
なにか策略を練っているらしい。
もしかしたら地盤固めに誘ったのはただの建前で、ほかに私の力が必要なことでもあるのかしら。
私はため息をついて頷いた。
「わかった、いまはなにも聞かないわ。それで、アーリアさんには会えた?」
夕食を持ってきたのだから厨房には行ったはず。
そう思って聞くと、ふたりは顔を見合わせて首を振った。
「それがどこにもいないんだ。先生たちを護衛した帰りに家も見てきたんだけどな」
「厨房も火を起こした形跡すらなかった。さすがに気にはなるが」
「それじゃあいまから厨房に行きましょう。貴方たち、最初にこの話をするべきだったんじゃないの?」
私が立ち上がると彼らは互いにちらと視線を合わせ気まずそうな顔をした。
「いや、正直、どんな顔で会えばいいのかわからなくてさ」
最初に口にしたのはディルだ。
気にしていないような素振りだったけれど、彼なりに色々考えていたんだろう。
「俺も同じだ。そもそもバークレイの話をアーリアに伝えたとて、いままでの時間は戻らない。急ぐ必要もないとは思っていたんだが」
アスルトもそう言って私を見る。
「ふむ。さすがに姿がないのは変だろうからな。腹を括るぞディル。行こう」
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厨房に入ってすぐ、私は嫌な香りを聴いた。
馨しきは〈嫌悪〉と〈不快感〉。〈救済〉を望む気持ちと〈自供〉、自身が〈正当〉であるという確信めいた思い。
その最後に香るのは乳飲み子特有の甘い香りと――赤薔薇の紅茶。
「リィゼリア、なにか聴こえるのか?」
ディルが私を覗き込んできたけれど、たぶんいま私は酷い顔をしている。
この香りがするということは、アーリアさんは赤薔薇の紅茶が象徴する誰かに会っているということ。
そしておそらく、救済を乞い、自身の罪を自供したのだ。
アスルトを思ってのことなのは乳飲み子の香りでわかる。
つまり私を刺したことの自供ではない。となれば――。
「アーリアさんは赤薔薇の紅茶の香りがする誰かと会って、ふたりを入れ換えたことを話したようだわ」
「なんだって?」
ディルがぎょっとしたように誰もいない空間を見回す。
「だとすると、その誰かはディルが王子で俺はいち国民と思っているのか。面倒だな。赤薔薇の紅茶となると母上に毒を盛った者と同一人物だろうか」
「ええ、まず間違いないと思うわ。普段からそれだけ赤薔薇の紅茶を好んでいるのか、紅茶に関わっている印象が強いのか。いずれにせよアーリアさんが求めたのは救済よ。この場合、自分ではなくアスルトの救済ではないかしら。そして恐怖や絶望は感じていない。だとすれば、アーリアさんは少なくとも赤薔薇の紅茶が象徴する人物とどこかに移動したはず」
「自分から一緒に移動したってこと、だよな。赤薔薇は少なくとも第二王子派閥だろ。なんでそんな。戦争を起こしたいわけじゃないはずなのに」
ディルが額に手を当ててかぶりを振る。
苦しそうな思念が聴こえたけれど、私には彼にしてあげられることがない、そう思う。
どうしようかと思っていると、アスルトが「ふむ」と唸った。
「それなら彼女も軍務会議に召集されて発言を許されるかもしれない。俺たちを貶めるためにな。大丈夫だディル、その赤薔薇と第二王子派閥からすれば価値ある情報だ。彼女の命を奪う理由はない」
「アスルト……ああ、そうだな」
私は頷くディルを横目にほっと息をつき、アスルトの言葉についてさらに考えた。
アーリアさんがアスルトの安全を条件に、その情報を白日のもとに晒すと約束した可能性はあるわね。
けれど、ここにはそれ以上の思念は残っていなかった。
「残念だけれど、ここからはもう追えそうにないわ。侍女長からの情報に期待しましょう」
私が言うと、ディルは一瞬だけ厨房を見渡してから踵を返す。
どこか儚げで寂しそうな表情は綺麗だけれど、決して幸せなものではない。
その思念を聴かぬよう、私は先に部屋を出ることにした。
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