第36話 赤い薔薇の香る先②

 ところが、である。


「正直、一番辛辣なのはリズだと俺は思う」

 アスルトに言われ、

「ああ、うん。本当、あんたってそんな感じだったなって安心した」

 ディルからはよくわからない称賛を頂戴した。


「どういうこと? 別に変なことは言っていないと思うけれど」

 冷めてきた紅茶の香りを堪能しながら言った瞬間、私はまだ項垂れている騎士が〈傷心〉の思念を香らせているのを聴いた。

「え、そんなに傷つけるような内容だった――?」

「自分、本当に、駄目な騎士ですね。申し訳ございませんでした『聴香師』様……」

「嘘、ちょっと待って。そんなつもりじゃなくて」

「いえ、なにが正しいのか見誤るところでしたし、実際、口にするのは不安で言葉にできず」

 哀愁すら感じるしょんぼりとした姿に、私は助けを求めてバークレイ医師を見る。

 けれど彼はそっと視線を逸らし、気付かないふりをした。

 まさか。そこまで酷かった?

 

「というわけで、君はしばらくバークレイと共に潜伏してもらう」


 そのとき、話を進めてくれたのは笑顔のアスルトだ。

「え? 自分ですか?」

「そうだ。私とディルに君が連れていかれたことはブルードの耳にも入るだろう。危険だからな」

 私は申し訳なくて身を縮めていたけれど、その言葉に思わず「あ」と声を上げた。

 考えてみたら、騎士はブルードにとって『秘密を握る者』なのだ。

 それがアスルトとディルに連れていかれたとあっては、最悪口封じされる畏れがある。


 全然気付いていなかった。


「そのあいだの給金は任せてくれ。君の家には極秘任務と伝えておくから」

 ディルがにこにこと微笑むが、

「は、はあ……」

 騎士は困惑したように言って泣きそうな顔をした。

「自分、戻れるのでしょうか……」

「ふむ。軍務会議後には戻れるだろうな。少し長い休みとでも思ってくれ」

 アスルトはそう言うとバークレイ医師に向けて小さく頷いてみせる。

「ディル、とりあえずお前の部屋に匿え。あとで潜伏先へ移動させる。バークレイとは既に合意している内容だ」

「わかった。じゃあ部屋に行こうか。あ、俺の部屋に武器と防具の手入れ道具があるから好きに使っていてくれ」

「え? ディル様のお部屋ですか? えっ」


 騎士は目を白黒させていたが、拒否権などあるはずもなく。

 言葉にしなくとも危険な状況になったのは真実で。

 始終かわいそうなひとだったわね、と私はこっそり思った。



 そうしてディルが戻ったとき、夕の鐘が鳴っていたことを教えてくれる。

 鐘の音が聞こえないのだから、この部屋はずいぶんと防音されているのね。

 私は固まった体をほぐそうと伸びをして、肩の激痛に身を竦めた。

「リィゼリア、大丈夫か?」

「う、見ていたの。大丈夫よ、怪我を忘れてしまうくらいには落ち着いたってことだもの」

「ならいいけど、本当にすまない。母さんのせいで」

「ふ、気にしていないわ。私が煽ったせいもあるから。そういえばアーリアさんには?」

「会っていないな。普段ならアスルトがいると偽装するための夕食を用意する頃だと思うけど厨房には寄っていないし」

「そう。あとで捜してみましょう」


 ディルもアスルトもわかっているとは思うけれど、彼女とは話す必要がある。

 避けては通れない道なのだ。


 私が意識を失ってしまったせいで聞けていないけれど、ふたりはどう思っているのだろう。

 この僅かに聴こえる〈不安〉はどちらのものなのか、それともふたりからしているのか。

きっとそれは私が敢えて確かめる必要のないことね。

 だから私は「それじゃあ」と切り出した。

「ここからは第一王妃様の思念について話すわ。彼女に毒を盛った犯人を捜し出し、追い詰めるために」


******


 とてもとてもアスルトを愛していた王妃様。

 私がお会いすることは叶わなかったけれど、その思念は慈愛に満ち、苦難にも恐れず立ち向かったことを証明していた。


 アスルトへの思いをどうしても伝えてあげたい。胸が締め付けられるような深い愛情を。


 それがディルを傷つけるかもしれないけれど、彼ならアスルトとともに喜び、悼み、慈しむだろうと思ったの。

 黙って聞いていたアスルトの瞳は机を見詰めたままだったけれど、ゆるりと弧を描いて閉じられた瞼の端、煌めくものが見えた。


 私はひと呼吸待ってから続きを口にする。

「それと、ここからは熱のせいか、思念に呑まれかけただけもしれないのだけど。白地で金糸の刺繍が施されたドレスを見た・・ような気がするの」


 そう。聴こえたのではなく、見えた・・・気がしたのだ。

 金糸で細やかな蔓の刺繍が施され、華やかでどこか凜とした美しさを纏うドレス。


「それはもしや、お倒れになった日にお召しになっていたものでは」

 応えてくれたのはバークレイ医師だった。

 彼は自身の顎のあたりを擦り、記憶を辿るように目を閉じる。

「私が呼ばれたのは第一王妃様が亡くなられた翌日でね。彼女の診察を行ったとき、たしかにそのようなお召し物だったと思う」

「いま、その服はどこに?」

 聞くと、彼は「ふむ」と逡巡しすぐに答えてくれた。

「侍女長がお召し物を換えたはずだ、彼女なら知っているのではないかな」

 言われた瞬間、ドッと心臓が跳ねる。嫌な予感がしたからだ。


「あの。侍女長はどんなかたですか?」

 聞くと、眉をひそめたディルが説明してくれた。

「すべての侍女を纏める役を担うだけでなく、第一王妃様、第二王妃様の世話役でもあるひとだ。母さんも彼女の下で第一王妃様の身の回りのことを手伝っていたんだけど、乳母になったことでいまの立場になった。気難しいことで有名みたいだな。侍女長がどうかしたのか?」

 私はディルにどう応えようか思案する。


 私が見たドレスは侍女長の前で止まり、頭の奥底を突き抜けるような鋭い香りを発した。

〈糾弾〉。〈糾弾〉。〈糾弾〉。〈何故〉〈どうして〉。


 あれがもし、侍女長に向けられた思念だったなら。

「わからない。わからないけれど、第一王妃様の思念は誰かを糾弾していたのだと思う。それが侍女長の可能性もあると思っているわ。ドレスが――彼女の前で止まったから。そう、それともうひとつ」

 最後に聴こえたのは華やかな薔薇の紅茶だっただろうか。

 あれは白薔薇ではなく、赤薔薇。

 私が最初にディルに淹れた紅茶と似ているが、もっと香り高く芳醇なもの。

 それこそ王族が口にすると言われても納得できるような茶葉だった。


「第一王妃様は赤薔薇の紅茶を飲むかしら」

「赤薔薇の紅茶? いや、母上は紅茶そのものをあまり口にしなかった。どちらかというと酒が好きだったからな。なにか聴こえたのか?」

 応えてくれたのは気持ちを持ち直したアスルトだ。

「ええ。聴いたわ。赤薔薇の紅茶の香りを。でもドレスの件は正直自信がないの。思念を可視化できるひとがいると師匠から聞いたことはあったけれど、自分にそれができるとは思えないわ」

 言うと、ディルが真っ直ぐ私を見詰めた。

 その紅い瞳は強い光を宿し、私を鼓舞しているみたいで。

 胸の奥に温かく柔らかい光が灯る。


「俺はあんたの見たものを信じる。あんたが見たのなら、きっと意味があったんだ。第一王妃様は誰かを糾弾していたんだろ? だとすればその赤薔薇の紅茶は鍵になる。あとはドレスだな。侍女長に聞こう。そのときに彼女の思念も聴ければ怪しいかわかるかもしれない」


 真っ直ぐに信じてくれるその気持ちが本当だということは、思念を聴かずとももうわかる。

 私は頷いて続けた。

「すぐにでも訪ねたいところだけれど夕の鐘は鳴ったようだし、明日の朝に侍女長を捕まえましょう。まだ時間はある、そうよね?」

「ああ。ではバークレイ。さっきの騎士と移動してくれ、ディルに護衛させる。軍務会議で証言してもらうこともあるだろう。窮屈だろうがそれまでは隠れてもらうぞ。よろしく頼む」

「仰せのままに、アスルト殿下。それと老骨ながらひとつ助言を。殿下は軍務会議までに地盤を固めるべきでしょう。いままでは第一王妃様のお力が強かった。軍務会議でブルード殿を糾弾したとして、有力貴族たちには貴方につかずともせめて中立を貫いてもらわねばなりません」

「――そうだな。俺にできるかはわからないが、やれるだけのことをしてみよう。よし、ディルとリズは朝の鐘がなる頃に俺の部屋に来てくれ。では行こう」

 私は茶器を片付け、可動台トローリーを押す。

 カラカラと軽やかに車輪が回り滑るように台が進むと、ディルが私の隣にやってきた。

「リィゼリア、わかっていると思うけど」

「貴方とアスルト以外が訪ねてきても鍵は開けないわ」

 私が笑うとディルも笑う。

 本当、子供みたいな扱いね。けれど一度破ってしまっている以上、おとなしく従うとしましょうか。


 どうしてか、私は心地よくて温かい気持ちだった。

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