第35話 赤い薔薇の香る先
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「さて、君には地下牢でのことを聞きたい。先に言っておくけれど、私に嘘は通じないので気を付けてくれたまえ。なにせ我が侍女は思念の香りを聴く『聴香師』なのだから。すべて失いたいのなら止めないけれどね」
アスルトはにこやかに物騒なことを言って机に片肘を突く。
私を矢面に立たせるのはやめてほしいけれど、仕方ない。
「ひゃ、は、はい、嘘などつきませんッ」
真っ青を通り越して蒼白になった騎士に、ディルが紅茶を口にして微笑んだのはそのときだ。
「大丈夫、こう言っているけどそんなことにはならないから。俺が質問するから、紅茶でも飲みながら落ち着いて答えてくれ。美味いぞ」
この状況で紅茶を勧めるのもどうかと思うけれど。
呆れて聞いているとバークレイ医師も苦い笑みを浮かべていた。
「それじゃあ早速。まず、牡鹿の――俺が運び出した
騎士が動かないのをどう思ったのかディルは質問を開始したけれど、私は彼の言葉に瞼を閉じる。
僅かな時間遮断した視界のなか、性別がはっきりしないほど幼い容姿が見えた気がした。
そう、牡鹿は男の子だったのね。
感傷に浸っている場合ではないからすぐに前を向いたけれど、胸の奥が微かに疼く。
騎士はビッと背筋を伸ばすと、すぐに口を開いた。
「あの少年は数年前、凄惨な事件を起こし収監されました。ただ、第二王子殿下の采配で極刑は免れています」
「わかった。それで君はあの日、いつから牢を番していた? 見回りはいつ行うんだ?」
「自分が夜勤の者と交代したのは朝の鐘が鳴る前です。鐘が鳴った頃の見回りでは少年に異常はありませんでした。食事も普通に摂っています。次の見回りは夕の鐘、夜勤の者と交代したあとになりますので、少年は既に運ばれたあとです」
己の仕事について思いのほか冷静に淡々と語る騎士に感心しながら、私は彼の思念を余すところなく聴いていく。
「それじゃあもうひとつ。朝の見回りのあと、いつ頃、誰が地下牢を訪れた?」
ディルからこの質問がなされた瞬間、特に変化のなかった騎士の思念がぶわっと香りを変えた。
私は紅茶のカップを静かにソーサーに置いて小さく息をつき、その思念を言葉として紡ぎ上げる。
「馨しきは〈不安〉と〈困惑〉、〈忠誠〉と〈嫌悪〉。そして大きな〈迷走〉。貴方はいまどうするべきか悩まれていますね。方向が定まらず、自身が向かう場所を決められない。いまここにいらっしゃるのは第一王子殿下だというのに悩まれるのですから、
「あ……」
騎士は言葉を失い、私を凝視して唇を薄く開きかける。
「あの日の夕方、私とディルが訪れた際に第二王子殿下とその側近がいらっしゃいました。彼らが昼頃にも訪れたのではないですか?」
静かに、語りかけるように。
師匠が言っていたわね、「怯えた相手は刺激しないように。激昂している相手には毅然と、憮然と、はっきり語りなさい」なんて。
彼の表情が苦しげに歪むのを眺めながら考える。
やがて騎士は首を振った。
「申し訳ありません。答えられません」
それこそが答えだとわかっているはずだけれど、彼は言わないことを選んだのだ。
馨しきは〈忠誠〉と自身への〈嫌悪〉、そして〈恋慕〉と〈謝罪〉の香り。
最後に聴こえたのは地下牢の悪臭ではなく、柔らかな陽だまりとラベンダーの香りだった。
「太陽のような安心感と優しいラベンダー」
思わず呟くと、騎士は驚いたように顔を上げる。
「恋い慕うひとを象徴している香りなのね。貴方はそのひとに申し訳ないと感じつつも忠誠を取った。自身への嫌悪もありながら、それでも選んだ。騎士として貴方は素晴らしいわ。相手のかたもそんな貴方を誇りに思うのではないかしら。でも同時に、貴方がいなくなったらきっと寂しがるわね」
彼は私の言葉に唇を噛んで俯く。
つらい選択だったろう。首を刎ねられる可能性を思い、私なら躊躇ってしまう。
すると黙って聞いていたアスルトが腕を組んで自嘲気味にこぼした。
「君の家はクーフェンの派閥だったな。本当に私の信頼のなさは失笑ものだ」
「そ、そんな! それは違います! ただ、自分は……」
「まあそう言うなよアスルト。貴族ってのは面倒なんだ。家のために自分の気持ちを押し殺すことだってあるさ。そうだよな?」
ディルが笑いながら言うけれど、この状況で笑われたら私なら卒倒するわね。
ああ、自分はここで終わりなのだ、と。
思わず深いため息がこぼれ、頭を抱えた私にバークレイ医師が憐憫の眼差しで頷いてくれた。
彼は私と同じ気持ちなのだろう。
「ねえ。悪いけれどふたりとも黙って頂戴。彼を怯えさせてどうするの」
「あっはは、それは悪かった!」
「うん……え、そうなのか?」
アスルトとディルは正反対の反応をしてから押し黙る。
私はふたりを一瞥して騎士に告げた。
「聞いてのとおり、私には貴方の思念が聴こえているわ。私は貴方の誇りを傷付けない。貴方はなにも口にしなくていいの。安心して」
「それは、でも」
「アスルトにもディルにも貴方を罰する権利なんてないのよ。そのうえで言うけれど、第二王子殿下の派閥だからなんだというの? 貴族って本当に大嫌いだわ。派閥? どうでもいいでしょう。貴方が忠誠を捧げているのはハルティオン王国ではないの? それとも貴方個人がクーフェン殿下に忠誠を誓ったの?」
「……!」
顔を上げた騎士の思念が強く応える。
〈忠誠〉と〈乖離〉。〈憂慮〉と〈配慮〉。国を思い、かけ離れた状況を憂い、心を配る気持ち。
「牢には庭園に続く抜け道があって、あの少年は昼前に私を襲いにきた。表向きは第一王子殿下を暗殺しにきたことになっているかしら。噂くらい耳にしたのではない? そして少年は失敗して毒を盛られ、ゴミのように切り捨てられた。少年が罪人とはいえ、それを許すのは果たして騎士なのかしらね」
どこかで牡鹿に自分を重ねてしまったのかもしれない。言いながら、自分でも否定したくなるような怒りと寂しさを感じた。
静かに語りかけようと思っていたのに、すっかり感情的になってしまったようだ。
彼は苦しげに顔を歪ませ、項垂れる。
「さあ、もう一度問いましょう。昼頃にもクーフェン殿下とブルードが牢を訪れているわね」
その思念が〈同調〉と〈不安〉を示す。そして強く強く〈助けてほしい〉と乞い願っている。
私は深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、しっかりと頷いた。
「貴方の思念、たしかに聴き届けましたわ。もう大丈夫」
私はアスルトとディルに目配せをして、項垂れた騎士に微笑む。
「ありがとう、これで一歩前進よ」
第一王妃様と牡鹿の毒は同じ種類のもの。
牡鹿に毒を盛ったのは牢番の証言から第二王子殿下とブルードのどちらか。けれど第二王子殿下が直接手をくだすとは思えないし、敵意を滲ませていたブルードであろう。
これでブルードが怪しいと糾弾する武器は手に入れたわ。
あとは第一王妃様に毒を盛った犯人を捜し出し、ブルードとの繋がりをみつけるだけだ。
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