第29話 第一王妃の御心のまま⑤

******


「リィゼリア、起きてくれ。着いたぞ」


 温かくて優しい手が頬に触れる。

 ああ、こんなふうに撫でてもらったのはいつ以来かしら。

 師匠もたまに私の頭を撫でてくれたわね。ずっと忘れていた優しかった頃の家族の記憶を呼び起こしてくれて。

 夢現の微睡みのなか、私はぼんやりと考えて――飛び起きた。


「きゃあッ!」


「うわッ!」

 反動で体を反らしたディルが天井に頭をぶつける。

「い、痛――」

「あ、え、ごめんなさ、じゃなくて! ディル! 距離感をどうにかして! 気安く触れたら駄目なんだから!」

「いや、いまのはあんたが呼んでも起きなかったからで」

 ディルは後頭部を擦りながら不服そうに言う。


 私はかーっと頬に血が上るのを感じた。


「そ、そうだったの? ご、ごめんなさい」

 謝ったけれど、聴こえたのは〈喜び〉と〈楽しい〉気持ちだ。

「ちょっと。貴方、喜んでいるじゃない」

「ははっ、ばれたか。あんな反応すると思わなくてつい」

 ディルはそう言うと、先に馬車から降りて手を差し出した。

「とりあえず部屋に戻ろう。アスルトは先に行った」

「え、えぇと」

「どうした?」

「ねえ、貴方もアスルトもそういうことをするのは普通なのでしょうけど。私には不要よ?」

「そういうこと?」

 言いながらディルは自分の手に視線を落とし、小さく笑う。

「うん……どうだろうな。普通だと思うけど俺はやったことがないし」

「え? そうなの?」

「ああ。第一王子殿下のお相手しかしたことがないからな。でもそうか、あんたはこういうの普通じゃないのか」

 彼は「それじゃあ」と言って、そのまま再度手を差し出す。

「毎回言うけど、あんただけにするよ。さあどうぞ『聴香師』殿」

「…………」


 そういえばアスルトが言っていたわね。勝手に寄ってきて玉砕したご令嬢ばかりだと。

 本当に同情する。

 私はため息を盛大に吐き出し、そっと手を出した。

 頬は熱くて胸がギュッと痛むのは彼に対しての贖罪の気持ちからだ、と。そう思いながら。


 空はまだ明けきっておらず、お城も町もまだ微睡んでいた。


******


「来たか。リズ、改良前で悪いが君は侍女服に着替えてくれ。数着は替えがあるはずだ。ディル、お前も騎士としてではない正装で頼む。母上の部屋に行く」

 王子殿下は部屋の前で腕を組んで立っていた。

 彼も着替えたようで、落ち着いた深紅の服に黒い細身のパンツ姿になっている。

 なによりその雰囲気がこう、親近感と威厳が程よく相まっている感じで好感が持てた。

「眼福ね」

「ふむ、世辞のない言葉は嬉しいものだ」

 微笑むアスルトにディルが唸る。

「ええ、俺も制服でいいだろ」

「駄目だ。母上のところに帯剣したお前を入れるわけにいかないだろう」

「うぐ、それもそうか。はあ。窮屈で好きじゃないんだよな」

「リズがお前の正装を楽しみにしているから気張るといい。では着替えたら呼んでくれ。俺は部屋にいる」

「アスルト、貴方勝手なことを。でも、そうね、さぞや眼福でしょうから期待しておくわ」

「んん、眼福かどうかはわからないけど、あんたがそう言うなら。そうだ、あんたの肩も処置しておこう。包帯と不織布を取ってくるから部屋にいてくれ」

 ディルはそう言うといそいそと自分の部屋に引っ込んでしまった。

 残された私とアスルトは顔を見合わせて苦笑する。

「扱いやすいといえばそうなんだが。君も苦労しそうだ」

「そう思うなら吹っ掛けないでいただきたいものですわ。それにディルの気持ちは貴方の期待するようなものではないし、万が一そうなったとしても私は応えないわ」

「ん、俺の思念が聴こえたのか?」

「いいえ? でもそのくらいわかるものでしょう」

「あっはは、そうか。それなら俺も、君の持つ力を考えれば言いたいことはわかるつもりだ。けれどリズ。気持ちというのはときに思うままにならない。それは憶えておくといい」

「思念の香りを聴く私に気持ちのなんたるかを説くひとは師匠以外初めてよ。それじゃあ部屋でディルを待つわ」

 私はそっと礼をして部屋に入る。


 そういえばこの部屋で刺されたのだったわね。

 見たところ血痕は綺麗に拭ってあり、部屋はとても綺麗に整頓されていた。


 アーリアさんはどうしているのかしら。話はしないと。

 考えながら部屋の隅に鎮座する衣装棚を開け、私は驚愕した。


「何着あるの……これ」


 ずらりと並ぶ制服に呆れてしまう。

 よく見たら気候に合わせて何種類かあるみたいね。アスルトときたらマメなものだ。

 すると扉を叩く軽い音がした。

 開けるとディルが立っていたのだけれど、私は思わず「あら」と口にした。

「もう着替えたの?」

「ああ。別段じっくり着るものでもないしな。あんたの肩を診たら髪だけ整えるよ」

 彼が着ていたのは落ち着いた濃い茶色の燕尾服。裏地は深紅でアスルトと対になっているかのようだ。

 鍛えてあるはずなのにしなやかな体付きがよくわかる。

 むしろこちらのほうが彼の手足がすらりと強調されていて、ご令嬢たちが悲鳴を上げそうだ。

「騎士の制服も似合うけれど、素敵ね」

「ははっ、そうか? だといいけど。あんたの嫌いなお貴族様感があって嫌がられるかと思った」

「え? ああ、貴族と言われればそうね。でもディルなら――」

 言いかけて口を噤む。

 ディルなら、なんだというのか。

「どうした?」

「いえ、とにかく私も着替えないと。肩をお願い」

「ああ。仰せのままに」

 ディルは笑うと扉を閉め、自分から背を向けてくれる。

 私は唇を真一文字に退き結び、火照って熱い頬をこっそり押さえた。

 自分で言いかけて照れるなんておかしい。ディルの綺麗な顔立ちだけでなく、その高い背もすらりとした四肢も見惚れてしまうほどだからだ。誰だってそうだわ、そうよね。

 私は自分に言い聞かせ、肩を出した。

「いいわ、お願い」

「おう。ん、腫れてるな。馬車は気を付けたつもりだけど揺らしすぎたか。痛むかもしれないけど薬も塗るぞ。少し触るけど、ごめん」


 そこで謝るのはやめてほしいわ。意識してしまうでしょう。


 思ったけれど口にするのは恥ずかしいので、私はぶんぶんと頷いた。

「貴方、馬車は気を付けたって……そういえば眠っていないの?」

「うん? まあ一日くらいは平気だ。あとで落ち着いたら仮眠させてもらうよ」

 目を逸らすのも反対に緊張するため、丸みを帯びた薬瓶から薬を取ったディルの指先がゆっくり傷を撫でるのを凝視していると、鋭い痛みとじくじくした痛みが同時に駆け抜け、私は歯を食い縛って身を固くする。

 このくらい痛みがあると逆に助かるわね、無駄に考えなくていいもの。

「先生がいるならちゃんと診てもらおう。傷跡が残らないといいけど」

 ディルは包帯を巻き直しながら言うとまじまじと私を見詰めた。

「あんた、顔が赤いな。もしかして傷のせいで熱があるのか?」


 そのまま温かい手が額に触れる。

 私はびくっと首を竦め、目を伏せた。


「ディル? さっき言ったわよね? 気安く触れては駄目って」

「あー、そうだったな。でもこれも正当な理由があってのことだと思う」

「もう、本当に大丈夫よ。早く着替えてアスルトのところに行きましょう、思念も時間が経つほど薄れるから急ぎたいわ」

「ん、わかった。でも、もしきつくなったらすぐ言ってくれ。いいな?」

 思いのほか真剣に返され、私はおとなしく頷く。


 誰のせいでこうなっているのか、わかってほしいものである

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