第23話 白き薔薇に忠誠を③

「アスルト殿下! ここで待っていてください! 私がを連れてきます!」

「彼だと? まさか……」


 返事は待たずに家を飛び出した。

 温まっていたせいか、身を切るような冷たい空気に晒された頬が痛い。

 私は思念の香りを手繰るようにして必死に走る。


 どこから聞いていたのだろう。

 私が彼女の思念を口にしたのを聞いていたのだろうか。


 きっと傷付けてしまった。嫌われてしまった。隠していたのだから。


 そう、やっぱりこうなるのだ。

 思念なんて聴こえても、いいことはない。


「待って――待っ……きゃあ!」


 どれほど走ったか、私は路地から出てきたひとにぶつかって思い切り転び、肩の痛みに声にならない声を上げた。

「う、ぐッ」

「こぉんな夜中に女性ひとりは危ないですよぉっと、へへ」

 ぶつかったのは小柄な男で、はっと息を呑む。

 ディルの思念を辿るのに必死で意識していなかったけれど、ここは危険なのだ。


「さあ、金と体、両方頂戴させてもらおうかぁ? 怪我したくないだろうしぃ?」


 ニヤニヤ嗤う男が手にしているのはナイフ。

 夜闇でもギラリと鈍く光る切っ先がゆっくりと私に向けられる。

「くっ」

 土を掻くようにして体を起こし、必死で逃げようとする私の髪を男が掴む。

「痛ッ」

「逃げられませんよぉっと」

 肩越しに掛かる息が酒臭い。

 恐い。助けてと叫びたい。

 でも。


「放して。貴方みたいな安い男に触られたくないわ」

 私は吐き捨てる。


 追い掛けているのに矛盾しているけれど、ディルを呼ぶのが恐かった。

 彼の思念が〈嫌悪〉に変わってしまっていたら、そう思うと。


「震えてるくせになぁ? 気の強い女は嫌いじゃないけどぉ」

 瞬間、引っぱられて壁にぶつかった。

「く、はッ」

 肩の痛みとともに肺から空気が押し出される。

 そのまま喉元にひやりとした感触が触れ、目と鼻の先に男の顔が寄せられた。

「黙ってねぇと斬っちまうぞ」

 低く、黒々とした感情が籠った声。

 纏わり付いた思念からは男に弄ばれた者たちの恐怖が、無念が、色濃く滲んでいる。


 前留めのローブが強引に引かれ、私は唇を噛み、零れそうな涙に抗った。


 泣くものか。

 なにをされたとて恥じたりしない。私は自分の誇りを捨てない。


 きつく瞼を閉じた瞬間、鼻先でふっと風が吹いた。


 馨しきは〈焦燥〉と〈憤怒〉、〈護る〉という強い意志。そして白薔薇と僅かな鉄。


 ドッ、と鈍い音がしたかと思うと力強く引き寄せられる。

 なにかに包まれると同時、鋭い声がした。


「彼女に触れるな。二度目はないッ!」


「ッ、くそったれが! 男連れかよ!」

 捨て台詞とともに足音が去っていくのが聞こえたけれど、私は動けなかったの。

 包まれた体が温かくて、いい香りで。目の奥が熱くなる。

「ディル……」

「あんたは俺が護るから。もう大丈夫だ、リィゼリア」

 左腕を私の背にまわし、しっかりと抱き留めるディルが耳元で囁く。

 彼の胸に顔を埋め、私は堪え切れなくなって嗚咽を押し殺す。

 溢れてくる涙が一体誰のためのものか、よくわからない。

 恐かったからか、安堵からか、それともディルの気持ちを思ってか。


「……あんた、泣いてるのか? ごめん。俺が逃げたからだ」


 いつもはすまないって言うのに、ごめんだなんて言い方はずるい。

 首を振ると、ディルは深く息を吐いた。

「はぁー。ちょっと混乱してさ。けど、あんたが襲われたのに気付いて無我夢中でどうでもよくなった。それだけじゃないぞ。あんたが行方不明になってどれほど心配したと思う」

 言いながら、彼の腕に力がこもる。

 だけど。

 痛い。左肩が痛い。

「ディ、ル。ごめんなさ、い、痛いわ」

「えっ! うわ! すまな……って、おいあんた! あいつに刺されたのか、その血――!」

 がばりと身を引いたディルが紅い双眸をこれでもかと見開く。

 私は涙を隠したくてフードを被り、ローブの前衣を掻き寄せた。

「違うわ。これは別件なの。大丈夫だから戻りましょう、貴方の親友を見つけたから」

 どこから聞いていたのか問うのは恐い。

 ディルの思念をこれ以上聴いてしまうのも恐い。

 だから先に歩き出し、少しでも離れようとしたけれど。


「待ってくれ、リィゼリア」


 ディルがそっと私の右手に触れる。

 途端に触れた箇所が熱を持ち、背を向けたまま身を竦めると、彼はゆっくりと告げた。

「恐かっただろ、震えてる。その肩、手当てしてからでも遅くない。宿がすぐそこだ。部屋は取ってあるから少し休んで戻ろう。あいつはもう逃げない、そうだろ?」

 私はぐっと唇を引き結び、ひと呼吸置いてから震える声で応える。

「違う。違うのディル。いま、貴方の思念を聴きたくないの――。もし私の言葉を聞いていたなら、隠していて酷いと思ったでしょう? だから」

「俺の思念は聴いても大丈夫だって言っただろ。そうだな、正直いますごく混乱してるし泣きたい感じもする。だけどそれ以上にあんたを護れてほっとしていて、ついでに言うならもうちょっと抱き締めていたかったし、なんならあんたにも抱き締め返してもらえたら嬉しかったってとこ。聴いてみてくれ。本心だから」

 私はその言葉に驚愕して思わず振り返った。

「ちょっと、なに言ってるのよ⁉ 私、真面目に……!」

「ははっ、すげー真っ赤だな。それでいいよ、俺はあんたのそういうところ、もっと見たい」

 無邪気に笑って私の涙のあとを柔らかく拭うディルに心臓が跳ね上がる。

「……ッ!」

 今回のことで嫌われるかもなんて思った自分を引っ叩いてやりたい。

 ぶわっと香る〈好意〉は恋とか愛とか以前、もしくはそれ以上の問題だった。

 ディルの無神経さと鈍感さが際立っている言葉に、私は再び背を向ける。

「本当に貴方って! ああ、もう、宿は行かない! 早く戻るわ! でも途中で私が放った外套を拾うから付き合って!」

 ディルは私の言葉にさっぱり笑うと、すぐ隣に立って応えた。

「ああ。また会えてよかった。本当に心配したんだからな」

「それも説明するわ。……でも、私も会えて嬉しいとは思ってる。その、助けてくれてありがとう」

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