第22話 白き薔薇に忠誠を②
馨しきは〈憂慮〉と〈護りたい〉という意志。そして誇り高くも優しい凛とした白薔薇。
どこ、どこから?
ふらふらと足を止めて路地を見回す。
すると物陰から飛び出してきた誰かが私の右手を握った。
「こっちだ、もう少しだけ頑張ってくれるか」
強いけれど優しい、ディルより少し低い声。
走る勢いでそのひとのフードが背中にこぼれると襟足が短く整えられた紅い髪が風にそよぐ。
ディルと似ているけれど、ディルのほうが少し鮮やかだろうか。
「もう安心だ。まずは傷の手当てをしよう」
私を見詰めるのは目尻のキリリとした紅い瞳。
ディルは綺麗な顔立ちだけれど、彼はもっと男性的な顔立ちといえばいいだろうか。
当然こちらも眼福であることに変わりはない。
肩で息をしながら突っ立っている私に、彼は表情を曇らせた。
「恐かったろう? もう心配いらない。ゆっくり呼吸を整えればいい」
私はそこで我に返り、できうる限りの所作を以て頭を下げる。
思えば随分失礼なことを考えていたわ。しっかりしないと。
「馨しきは誇り高くも優しい凛とした
「!」
彼ははっと息を呑むと苦笑した。
すべてを察したような表情に、私も苦笑を返す。
「まさか『聴香師』か? あははっ、ディルが依頼しに行ったのか――まったく、あいつときたら余計なことを……」
その香りに〈親愛〉と〈哀愁〉と〈懺悔〉が入り混じる。
「これは俺を誘い出すための罠だったということだな。まんまと引っ掛かった。でも君が本当に怪我をしていないのならよかったと思うことにしよう」
「ああ、その、申し訳ございません殿下。怪我は本物です。処置用の包帯などは購入してございますので、少しお時間をいただいてからご説明しても?」
言うと、アスルト殿下は思い切り眉根を寄せてからかぶりを振った。
「勿論構わないが、まさかこのために怪我をさせたわけではないだろうな? ディルはどこだ?」
「ディルとは別行動をしております。ここに辿り着くまでにいろいろありましたが、ディルのせいではありません。私が怪我をしたと知れば『あんたを護るって言ったのに』なんて悲しそうな顔をするに違いないでしょう」
私がディルについて思うままを口にすると、一瞬だけほっとした表情を見せたアスルト殿下は気を遣ったのか私に背を向けた。
「あいつが君を護ると言ったのか? だとしたら本当に鈍感を極めているな、あいつは」
「ええ。無神経と言って差し上げましたわ」
「あっはは、それはいい。そのときの顔が見たかった――」
言葉の終わりは小さくほろりと崩れ、殿下が俯いたのがわかる。
私は応えずにシャツを脱いで包帯を解き、不織布を取り換えて新しい包帯をなんとか巻き直した。
鈍い痛みは続いているけれど、とりあえずはこれでなんとかなるか。
あとで処置できるひとに治療してもらうべきかしら。
考えながら血濡れのシャツを羽織り直しひと息ついたところで、部屋を見回す。
あるのは暖炉と薪、毛布。奥には水場があるのか僅かに水の匂いを感じた。
「ありがとうございます。夜は冷えますから火を起こしても? 順を追ってご説明いたします」
「ああ、俺が起こそう。茶くらいは淹れられる。君は座っていてくれ」
「茶葉があるのですか? でしたら私に淹れさせてくださいませ。こう見えて、第一王子殿下付きの侍女という役職を頂戴いたしておりますので」
微笑むとアスルト殿下は驚いたように振り返り、クスクスと笑った。
「君が? ディルの奴、小賢しいな。では肩が痛まないのなら頼もうか。難しければ言うように。それから、俺のローブで申し訳ないがその服は忍びない。羽織ってくれ」
「仰せのままに」
私は礼をしてローブを受け取り、早速準備に取り掛かる。
そうしてお茶を淹れ、状況の説明を行った。
ディルに雇われたこと、アスルト殿下の思念を聴いたこと。牡鹿に襲われたこと、牡鹿が切り捨てられたこと。第二王子殿下とブルードの思念を聴いたこと。そして――ディルの母親に刺され、バークレイ医師に助けられたこと。
「そういった状況で、ディルはまだ殿下が失踪した理由を知らずにおります」
「……」
アスルト殿下は温くなった紅茶を優雅な所作で口に含み飲み下す。
咽頭が上下し、紅い瞳がゆるりと瞬いた。
「ありがとう。君に危険を背負わせてしまったのに、ここまで」
「ご安心ください。ディルからたんまり報酬を頂戴いたしますわ。それに、やはり戦争など起きないほうが幸せです」
「報酬で危険を買わずともいいだろう」
「ふふ、その言葉、ディルからも言われました。けれどアスルト殿下、私には夢があるのです」
「夢?」
「長閑な田舎に家を買って、細々でもいいので静かに暮らすこと。ほんの少し他者との交流があって、買い出しにも困らない程度だとなおよしです。このとおり思念の香りが聴こえてしまうので」
恐いとか気持ち悪いとか、そういう感情を抱かれたくない。苦しい感情を聞きたくない。
けれど、独り寂しいのは嫌だった。
「贅沢な夢です。必死で稼がなければ届かない。ですから、依頼主の事情に踏み込まず失せ者を捜してガツガツ稼げと師匠に言われました。忌み嫌われたくないのに思念の香りを聴くのはおかしいのでは? と聞いたら『力は利用すればいい。自分の夢のためになら』と笑われたものです」
だからこそ、思う。
「アスルト殿下は殿下のまま、自分の夢のために進むこともできるのではないですか?」
「……」
無言でカップの中身を見詰め、彼はやがて首を振った。
「いや、真実は明かさねばならない。俺はディルの幸せを奪っていた。この先ディルが享受するはずの恩恵を自身が受けるなど以ての外だ。ディルの母君が俺の母君だったせいで彼女がディルに冷たかったのだとわかって、俺はあいつに合わせる顔がないと思ったんだ。自分を嫌悪するくらいに」
「あ……」
私は思わず言葉を失う。
そう。そうなのね。殿下も彼女の対応に気づいていたの。
「彼女のディルに対する思念は酷いものでした。憎悪すら感じるほどの。それでもディルは彼女を誇っていた。私は彼を傷つけたくありません」
「知ればあいつは傷つく。それはわかっている。けれど俺とディルが取り換え子で、あいつこそが王子だと皆に知らしめれば――……誰だッ⁉」
瞬間、アスルト殿下は思いのほか俊敏な動きで扉を開け放った。
扉の前には誰もいなかったけれど、微かな足音が耳朶を打つ。
同時にアスルト殿下がギリ、と唇を噛んだ。
「く、聞かれたッ! ここにいてくれ、追いかける!」
「お待ちください! 私が!」
私は扉に駆け寄って思い切り息を吸う。
だけど。そこでふわりと香ったのは。
「嘘、でしょう……」
「どうした」
「馨しきは――〈驚愕〉と〈混乱〉、引き裂かれるような〈悲しみ〉。それに、それに白薔薇と鉄の……」
ディル。
ディルがここにいたのだ。
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