第21話 白き薔薇に忠誠を
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ここから動こうと思うなら、どこへ向かうにしても町で準備をする。
アスルト殿下は近くの宿場町に向かったはずだ。
置き手紙には残念ながら思念は残っていなかった。
数日に跨がって香りが残ることはあるけれど、日が経てば経つほど薄れるのが常。
つまりお城でアスルト殿下の思念が聴こえたのは、それほどに強い思いを抱いたからなのだ。
殿下は気持ちを切り換え、お城にいたときよりも落ち着いて対応していたのだろう。
強いひとなのだ、と思った。
「では行きます。今回の代金は改めてご相談いたしますわ。助けになれるかはアスルト殿下にお会いしてから決めますので」
「承知したよ。私も城に行くことは多いからね。こちらから改めて伺おう」
「ありがとうございます。では」
「気を付けて」
私は痛む左肩を庇いながらバークレイ医師に礼をして踵を返す。
丘から見下ろした大地に並ぶ建物の影が確認できた。
さすがに王都ほど大きくはないにしても、住んでいるのが数十人ということはなさそうね。
日が沈むまでにはたどり着けるかしら。
服は動きやすいものを選んで、肩が痛むために体の前で留められる白いシャツにしてあった。
下は膝丈より少し長い紅色のスカートに元々履いていたブーツ。
外套はフード付きの黒色で丈が長く、目立つ髪色を隠すのにも役立ちそうだ。
贅沢をしなければ数日は過ごせるだけのお金もありがたい。
アスルト殿下もバークレイ医師のところで着替えたのだろうから、目立たない服装になっているはず。
私はアスルト殿下を捜す算段を練りながら、町への道を踏み締めた。
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そうして町に着く頃にはすっかり夕暮れ時になっていた。
西の空が茜色に染まり、東の空は濃紺の帳を降ろしていく。
バークレイ医師曰く、この町の宿はひとつだけらしい。
アスルト殿下がそこにいるとは思えないけれど、併設された酒場になら顔を出すかもしれないわ。
成人になるのは十八歳からだし、私が入っても追い出されることはないはず。
私は町のなかをスタスタと歩きながら聴こえる思念に集中する。
日常の鬱憤や色恋沙汰、ほんのり香るだけで決して強くはないものに混ざり、酷い絶望や怯え、恐怖や悲しみを滲ませる者の思念が聴こえてくる。
普段は鼻と口を覆うヴェールを纏っているので後者のように強い思念でなければ聴こえないのだけれど、いまは些細なものでも聴いておきたい。
町がどんな状況なのか推し量るのに有用だからだ。
すると、ほどなく路地裏から下世話で危険な思念が聴こえてきた。
馨しきは〈享楽〉と〈高揚感〉、〈奪いたい〉という願望。そして土埃と酒の香り。
この香りに類するものが聴こえるのは、よからぬ輩が眼を光らせているときだ。
盗賊まがいのゴロツキが身を潜めているのである。
普段ならその場から退散するけれど、私は小さく拳を握った。
アスルト殿下が話どおりの人物であれば、窃盗など許すはずがない。
まだこの町にいるのなら、なにか事件があれば姿を現すのではないかしら。
かといって誰か襲われるまで見ているのも気が引ける。
ディルがいてくれるなら自分を囮にするけれど……いえ、きっとディルは大反対するに違いないわね。
牡鹿を相手にしたとき、思いのほか危なかったもの。
そこまで考えて私は苦笑した。
ずいぶんとすんなり彼のことが浮かんでしまうのはなんだかむず痒い。
でも、そうね。なにも本当に襲われなくてもいいじゃない。
そうと決まれば準備が必要だ。治安の悪そうな路地を捜して情報を集めて、と。
私は早足で町を歩き、作戦決行の場所に当たりをつけた。
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すっかり夜も更け、町の灯りが静かに暖かな雰囲気を放つ頃。
酒場でも思念の聴き込みを済ませ準備を終えたた私は、そっと目当ての路地を覗き込み、ふうと息を吐く。
アスルト殿下の情報は得られなかったけれど、まだこの町にいる可能性は十分あると判断した。
酔っているときに襲われたが誰かに助けられた、それでも呑むのは止められないと騒いでいるひとがいたからだ。
彼の思念からは僅かな〈怯え〉が聴こえたけれど、酒というのは気持ちを大きくしてしまうものである。いつか痛い目を見るでしょうね。
さて、それじゃあやりましょうか。
私は腹に力を入れ、手当してあった肩にグッと指を立てた。
「う、あッ」
思った以上の激痛だけれど、我慢するしかない。
ほどなくして縫い留めた傷から血があふれ、白いシャツを赤く染める。
夜闇でも怪我をしているのがわかるほどだ。
アスルト殿下がこの状況を見たなら絶対に声を掛けて助けてくれる。そう思う。
この路地付近で窃盗や強盗が行われているのは思念からはっきりわかった。
人通りはそう多くないが、ここを使う人は少なくない。そんな場所。
灯りも同じで、多くはないだけ。
これがまったく灯りのない場所となると人は避けるものだけれど、周りが見える程度には明るいこの通りなら緩んだ気持ちで「自分は大丈夫」と足を向けてしまう。
私は息を吸い込んで、腹の底から声を上げた。
「誰か! 助けてください! 助けて!」
そのまま外套を放り、路地に向けて走り出す。
外套はあとで拾いに戻ればいい。
さあ、来てもらうわ!
私は声を上げるのを止めず、路地をひとり駆け抜ける。
右へ、左へ。
闇雲に見えるかもしれないけれど、ちゃんと考えてあった。
怪しい路地から路地、あまりに危険な箇所は避けて。
そうしてどのくらい走ったか、息が上がってそろそろ走れないかもと思った私はその香りに顔を上げた。
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