第18話 思惑まじわる愚者の懺悔
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その夜、衣擦れの音で瞼を上げた。
明かり取りの窓からは月の光がぼんやりと入り、部屋はひっそりしている。
まだ夜明けまではかなりありそうね。
冷たい空気は肌を刺すほどではなくとも動きを鈍らせるには十分だ。
ちなみに備え付けの湯舟で湯あみは済ませたが、侍女の制服はそのままだった。
なにせ自分の着てきた服以外に替えなど持ってきていない。明日それも用意しないと。
そこで扉と床の隙間に誰かの影が見え、私は音を立てないようベッドから這い出し、慎重に扉に歩み寄ってすぅっと思念を確かめた。
「……馨しきは〈恐怖〉と〈焦燥〉、〈迷い〉そして乳飲み子の甘い香り。ディル様のお母様ですね?」
「話があるわ。開けてもらえるかしら」
「……」
どうしようと思わなかったわけじゃない。
けれど私にも話したいことがある。
私はすぐに鍵を開け、彼女を招き入れた。
「どうぞ。紅茶でもお淹れいたしましょうか?」
「結構よ。単刀直入に言うわ。貴女、なにをどこまで知っているの?」
彼女は不安に駆られ、恐怖を覚え、焦っている。
私は小さく息を吐き、彼女の正面に姿勢を正してしっかり立ち、ゆっくりと告げた。
「なにも知りません。けれど、貴女と第一王子殿下の思念から予想はできています」
「嘘はやめて頂戴。思念の香りなど……!」
「し。ディル様に聞かれたくはありません」
声を荒げた彼女を制するため唇に人差し指を当てて言うと、彼女はフッと鼻先で笑った。
「ディルならいません。助けは来ませんよ。アスルト殿下から連絡があって呼んでいると伝えましたから。今頃誰もいない庭園に向かっているでしょう」
「そうですか。別に助けは求めませんわ。私の予測でよければお話したいと思っておりましたので、いまはっきりさせましょう」
ディルの母親は淡々と返した私を見て僅かに唇を噛んだ。
薄暗い部屋で、その頬は青白く見える。
私は慎重に言葉を選びながら、再びゆっくりと口にした。
「第一王子殿下とディル様は乳兄弟とお伺いしております。誕生日も三日違うだけ、容姿もどことなく似ていらっしゃるとか。そして先ほどもお伝えしましたが貴女の思念からは乳飲み子の香りがしています」
「乳飲み子の香りがなんだというの」
「貴女がアスルト殿下の話をする際に香るもので、ディル様に対しては感じませんでした。彼の頬を打ったとき、むしろ怒りや憎しみのような感情を抱かれておいででしたね」
彼女は紅い瞳をキッと細め、私を睨みつける。
けれどその程度、何度も味わってきたもの。いまさら怯えることはない。
「アスルト殿下の思念からは、〈拒絶〉と〈親愛〉、大きな〈困惑〉が聴こえました。これは貴女に対して抱いたものです。そして食器からは〈嫌悪〉、〈悲しみ〉、再びの〈親愛〉。これは自身とディル様への思いでしょう。アスルト殿下は貴女を拒絶し自分を嫌悪しディル様を
一度言葉を切り、唇を湿らせる。
「貴女は過去に自身の子供と第一王妃様の子供を取り換えた。そして自身が本当の母親だと、アスルト殿下に名乗ったのでは?」
その瞬間。ディルの母親から濁流が渦巻くような激しい思念が溢れた。
「なんて
冷ややかな瞳から感じる軽蔑の眼差し。
不快だと思われているのはわかっていたけれど、言ってくれるわね。
そんな態度なら、私が丁寧に接して差し上げる必要もないでしょう。
「そうですね。けれど私は恥じたりしません。誇りも捨てません。貴女のように行いが露呈することに恐怖し、焦ることもない。アスルト殿下が失踪したのは貴女が原因です。ディルは貴女をかばい、誇っていたのに――これだから貴族なんて大嫌い。亡きお母様のために悲しんでいたアスルト殿下に対してよくも名乗れたものね。あげく拒絶までされておかわいそうにとでも言って差し上げましょうか? 貴女が一番大切にするのはアスルト殿下ではなくディルよ! 彼の気持ちを考えたらどうなの!」
「お前になにがわかるというのッ! あの子が失踪したのはディルのせいよッ! そうでなければおかしいでしょう! 私は母だもの! 我が子をこの手で取り換えるしかなかっただけッ!」
馨しきは〈憎悪〉と〈激高〉。自分のせいじゃないという歪んだ〈自信〉。
彼女は自分を受け入れてもらえると思い込んでいて、拒絶されて怯え、露見することを恐れていたのだろう。
けれどアスルト殿下の失踪は彼女からすれば自分を見失うほどの大事で、子を思う気持ちは本物だった。だから私が彼を捜すことには協力してくれたのだと思う。
それでも。本当に気分が悪かった。
「あの子をどこに隠したの! 教えなさいッ!」
ディルの母親は私の両肩に爪を立てて掴みかかり、獣のようにギラギラした双眸で睨みつけた。
「まだ捜しているところよ。少しは頭を冷やしたらどう! ディルがあんなに真っ直ぐだというのに貴女は!」
事情には踏み込まないと決めているけれど、こればかりは許せない。
私が突き飛ばすと彼女はよろめいて手を放す。
しかし、その体が大きく揺れたかと思うと、私の左肩を激痛が襲った。
「うぅッ⁉」
刺されたと気付くのに少しかかった。
果物を切るためのナイフが服を裂き皮膚に到達している。
溢れる熱い液体は薄暗い闇にも映える鮮血。
「貴女は……こんなことまでして……!」
呻くように言うと、ディルの母親はナイフをそのままに後退った。
「お前が悪いのよ。お前とディルが!」
その表情は酷く怯えていて、私は密かに安堵する。これ以上の追撃はないだろう。
傷がズグズグと疼き視界が涙で歪んだけれど、追及をやめるわけにはいかない。
「ディルは悪くないわ。アスルト殿下を見つけられず第二王子殿下の派閥が動いたらどうするつもり? 戦争に巻き込まれると貴女も言っていたのに」
吐き捨てた瞬間、私はびくりと身を竦ませた。
ディルの母親の後ろ、開け放たれた扉のところに誰かいるのだ。
頭から足首までを隠すローブに身を包んだ、おそらくは男性。
「だ、誰――」
滑るように部屋に踏み入ると、その人は問答無用で私の首になにかを突き刺した。
細い針だろうか。痛みは一瞬でひやりと冷たい液体が流れ込んでくると同時、急激に意識が遠のいていく。
しまった、思念が聴こえなくて完全に油断していた。
ああ、ごめんなさいディル。アスルト殿下を捜すと約束したのに。
私、ここで終わりみたい。
最期に思うのがディルのことだなんて、自分でも少し意外だった。
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