第13話 第二王子の懐刀⑥

 しまったと思った瞬間、ディルが私を掴んだ手を払いのけてくれる。

 すぐさま背中に庇われた私は彼の紅い髪が揺れるのを見た。


「彼女に触れるな。次は腕を斬り飛ばすぞ……!」


 次いで鋭い剣のような言葉が暗闇を裂くと、牢獄はしんと静まり返る。

 けれどディルから聴こえたのは力強く猛々しい声とは裏腹に〈心配〉と〈動揺〉。そして〈護りたい〉という純粋な思いだった。

 最後に白薔薇と僅かな鉄の香りを残して薄れたけれど、私は胸がぎゅうっと痛んで必死に深い呼吸を繰り返す。

 酷い悪臭のなかだというのに。

 優しくて真っ直ぐで思念を残しやすいディルのようなひとは、やはり苦手だ。


 聴くこえる香りの馨しさが変わることを恐れなければならないから――。


「リィゼリア、平気か? 驚かせたみたいだな。すまない」

「いえ、ごめんなさい。少しボーッとしていたみたい」

 振り返るディルの顔を見ることもできず、私は俯いて背を向ける。

 駄目ね、こんな扱いを受けたことがなくて戸惑うばかりで。

 さらりと躱すべきなのはわかっているし、そうしてきたはずなんだけれど。

「リ……」

「大丈夫。早く牡鹿を捜しましょう」

「あ、ああ」

 私はできうる限りきっぱりと告げ、ブーツを鳴らして進む。

 思念は変わらず聴こえるけれど息を潜めた静寂が体を包んでいた。


 そして。


「……ッ」

 一番奥の壁際、誰もいないと思われるような暗さのなか、その思念は渦巻いていた。

 多くの命が遺す絶望。四肢が引き裂かれるような恐怖が満ちた場所。

 間違うはずがない。

「見つけたわ」

 一歩、一歩。

 牢の前まで行くのに足が竦む。

 聴こえる絶望の思念が私の足を絡め取っていく。

 鼻を突く糞尿の悪臭、カビと埃が混ざった湿った空気。

 果たして、そこには。


 奥の壁際に蹲る、汚れた白い服の子供がいた。


 闇に馴染む、黒に蒼を混ぜた髪。膝を抱え顔を伏せているから表情も性別もやはりわからない。

 細く白い手足が闇に浮かび上がり、ともすれば生きているのかさえ疑うほどだ。

「この子がそうか」

 隣にやってきたディルが鉄格子を覗き込む。

 独房にあるのはベッドに毛布、排泄用の穴のみ。

 牡鹿は微動だにしない。

「会いにきたぞ牡鹿。ぱっと見はなにもなさそうだな。だとしたら格子の上か、お前の下か? とにかく通路は塞がせてもらった。逃げようなんて思うなよ」

 ディルはそう言ったけれど、私は疑問に思った。


「待ってディル。おかしい。牡鹿から思念の香りが聴こえない――」


 その瞬間をどう説明したらいいのか。

 ゆら、ゆら、と……牡鹿が頭をもたげる。

 口からはダラダラと涎を垂らし、焦点が合っていない。

 意識があってこちらを向いたのではなく、ただ音に反応しただけにも思えた。

「……ッ! くそ、毒か⁉ リィゼリア! 見張りに鍵を貰ってくる! あんたはここでじっとしていてくれ、いいなッ!」

 ディルは松明の灯りでもはっきりわかるほど驚愕した顔で声を上げると、すぐさま駆け出す。

 その背が闇のなかを遠ざかっていくあいだ、私は震える足を引き摺るようにして鉄格子に歩み寄った。

「……なに、これは」

 酷い。

 ディルの言うとおり毒なのだろうか。治せるのだろうか。なんにしても自我を失うほどの事象・・が牡鹿をこんなふうにしたのだ。

 確かに赦されざることをしてきたはず。けれどこんな、使い捨てるなんて。


 鉄格子の向こう側、牡鹿はやがて冷たい石床にゴトン、と倒れ臥す。

 その瞬間、彼の纏う暗く重い思念がぶわあっと聴こえた。

 たくさんの〈絶望〉、〈恐怖〉――血を吐き必死で逃げようとした姿が脳裏に浮かぶ。

 遺された思念たちは牡鹿の惨状に喜ぶこともないけれど、消えていくこともない。

 なんてあわれなのだろう、そう思ったとき、その姿に予期せずして自分が重なった。


 こんなふうに冷たい場所に転がったままだったら。師匠が私を拾ってくれなかったら。私も罪を犯しこうなっていた。

 惨めで哀れで、寂しくて。

 こんな子供でも家族と住めないことがある。捨てられることがある。私は身を以て知っている。



 ああ、なんて暗く冷たく馨しいの――。



 瞬間、強烈な吐き気に体を折った私は、錆ついた鉄格子に額をガツンと当て歯を食い縛った。

 幸い本当に胃の中身を吐き出さずには済んだけれど――駄目、ここにいては惑わされる。

 離れないと――。


 そのとき。


「早く開けていただきたい。なにかの毒物かもしれません! あのままにはしておけない!」


 ディルの声が聞こえて、私はゆるゆると顔を上げた。


 彼はどうやらひとりではないらしい。

 確認できるのは大柄な男性と、細い線の――おそらく男性。

 騎士ではないようだけれど、ディルの口調からそれなりの地位だろうと考える。

 なんとか思考を巡らせようとしていると、ディルが私の様子に気が付いた。


「リィゼリア? どうした、大丈夫か⁉」


 駆け寄ってきて私の肩を支えるディルの温かい手。

 心配そうに覗き込んでいる紅い瞳の上、困惑気味に下がった眉尻。

 なによりも誇り高く真っ直ぐ私を護ろうとしてくれる馨しき思念の香り。

 白薔薇と僅かな鉄の――。


 そこで私の意識は急激に鮮明になった。


「ッ、ごめんなさい、少し思念に呑まれそうになって。助かったわ」

「思念に呑まれる? いや、とにかくいまは顔色が悪いし無理しないでくれ。すまなかった、あんたを残していくべきじゃなかった」

「大丈夫よ。ありがとうディル」

 私は肩を支えるディルの手に指先でちょんと触れ、口元に笑みを浮かべてみせる。

 それに――どうやらおとなしくしている場合でもなさそうだ。


 馨しきは〈敵意〉と〈拒絶〉、そして〈排除したい〉という願望。そして僅かな〈動揺〉。


 はっきりと強く聴こえる思念は、大柄な男性の睨め付けるような眼光から彼のものだとわかる。

 二割ほど白髪を含んだ黒髪は整髪料で整えてあって、キチリと襟までボタンの留められた黒い外套からも几帳面そうだ。


 このひとが『主さま』だ。私は直感的に理解した。

 自分の――ひいては第二王子殿下の懐刀をこんな簡単に捨てることができるなんて、どうかしているわ。


 けれど、その隣。

 黒い髪に蒼い瞳を持つ細身の男性が放った言葉に、私は息を呑んだ。


「君がアスルト兄さん・・・・・・・の侍女? 思念の香りが聴こえるって本当?」

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