第10話 第二王子の懐刀③
「この下が牢獄? まさかあの臭いは……」
呟くとディルは私を促して歩き出す。
足下には煉瓦が敷き詰められていて歩きやすく、草花の色が良く映えている。
手入れの行き届いた庭園は様々な香りがして気持ちよかった。
仕事じゃなければもっと楽しめたのでしょうけど、仕方ない。
戦争なんてことになったら今度こそ命を落とすかもしれないもの。
するとディルが前を向いたまま話し始めた。
「たぶん、あんたが聴いた悪臭はそこを示してる。しかも管理者は第二王子派閥だ」
「それはまたキナ臭いわね」
「だろ? ちなみに気高い香りの白薔薇は年に何度も大輪を咲かせる品種なんだ。年中とまではいかないけど香っている時期は長いからな。牢獄の臭いと結びついていたんだと思う」
「え? どういうこと? まさか庭園内に牢獄への入口でもあるの?」
ディルは首を振って私を振り返った。
「ないはずだ。だけどあんたには聴こえたんだろ? なら、きっと俺たちが知らない通路があるさ」
その表情は自信に満ちていて凛々しく、思わずみとれてしまうほど。
きりりと上がった眉尻も、緩やかに弧を描く唇も、ほんのり上気した頬も。とにかくすべてが眼福でソワソワする。
しかもディルは私の聴いた思念の香りを微塵も疑っていない。
半信半疑で
そんなに真っ直ぐいられるのはどうしてなのだろう。
「ねえディル。貴方ってひとを疑ったりしないの?」
思わず問うと彼はますます破顔した。
綺麗な顔立ちだから思い切り笑ってもさまになるのよね。
細くなる眼も、悪戯を思いついた子供のような無邪気さが滲む口元も。
一瞬至極どうでもいいことを考えてしまったけれど、続くディルの言葉はやはり真っ直ぐだった。
「俺だって疑うさ。でもあんたのことは信じてる。それだけ」
同時に香るのは〈信頼〉と――。
私は首を振って香りを散らし、聴くことを躊躇った。
どんなに真っ直ぐでも、心は移ろうものだもの。
******
少し進んだ先は大小様々な白薔薇が植えられた区画だった。
香りの強いもの、大輪のもの、八重咲きのもの、小さな花がたわわに咲き誇るもの。
白薔薇ひとつとっても種類は多く、私もそのすべての香りがわかるわけではない。
けれどひとつ自信を持って言えることがある。
「綺麗……」
吐息とともにこぼれた言葉に、立ち止まったディルが微笑んだ。
「そうだろ? 俺、白薔薇が好きなんだ。なににも染まらず清楚かつ華やか――柔らかいけど強い感じが。実はあんたに白薔薇の香りがするって言われて嬉しくてさ」
「あら、そうだったの。貴方から聴こえるのは凜として芯のある、だけど優しいものよ。赤薔薇のように濃厚でふくよかなものではないけれど、そこに
私が言うとディルはニッと笑って手招きをした。
笑顔ひとつとっても彼は様々な表情をみせる。私には眩しすぎるけれど。
「こっち。……これじゃないか?」
そこにあるのは手のひらにすぽりと収まるくらいの花を咲かせたものだった。
ひとつの枝の先端にひとつの花があり、花片は剣の切っ先のような形。枚数は多すぎず少なすぎずで、薔薇らしい多角形を象っている。
私は促されるままその花に顔を寄せ、すーっと息を吸った。
「そう、これだわ。いい香り。形もすごく好き」
「ははっ、それは光栄だな。この白薔薇はアスルトクルーヌって品種なんだ。第一王子殿下の冠を意味してる」
「ああ、第一王子殿下の花なのね?」
なるほど。それがディルを象徴しているのだから、彼は余程アスルト殿下との絆を感じているのでしょう。
白薔薇に混ざる僅かな鉄の香りこそがディル本人を表しているのかもしれない。
ディルは私の言葉に頷くと白薔薇を優しく撫で、ぐるりと辺りを見回した。
「さて、ここからだ。まずは庭師を捜したい」
白薔薇の区画だけでもかなり広そうだ。
薔薇の背丈は高いものも多く、先を見通すことは難しい。
「なかなか骨が折れそうね。たしか昼の鐘が鳴っていたから食事中ということはない?」
「ああ、いい線かも。庭師たちが使う
私に応えたディルが再び歩き出すので、一歩後ろに続く。
するとディルが歩く速度を落とした。
「どうしたの?」
「え? いや、あんたがずっと後ろにいるから、速過ぎたかなと」
「……」
そんなことを考えているなんて衝撃だったから、私は言葉を失って歩みを止める。
気付いたディルも数歩先で足を止めた。
「あれ? 俺、なんかおかしなこと言ったか?」
「ええ、おかしいわね。私は一応侍女だから、近衛騎士様と並んで歩くのは失礼だと思う。侍女に気を遣う必要はないでしょう?」
「そんなことはないだろ。同じ第一王子殿下付きだし? 同僚なんていなかったから俺としては嬉しいんだけど」
「え? 同僚がいない?」
「そ。アスルトが無駄な金を使うなら民に回そうーなんて言ってさ。ああ、でもあんたの噂を教えてくれたのはアスルトなんだ。力になってもらうときが来たら惜しみなく支払おうって笑ってた。ちなみに母さんが侍女みたいな仕事も賄ってる」
私はその言葉に息を呑む。
ディルとディルの母親しか会っていないけれど、まさかほかにいなかったなんて!
牡鹿みたいなのがいると知っていてその選択は危険すぎない?
それだけディルを信じていたのなら、どうしてなにも言わずに失踪したの?
ディルの母親はアスルト殿下に傾倒していたようだけど――待って、変だわ。
アスルト殿下の部屋で香ったのは野苺ケーキだった。
だとしたら
「おぉい、ディル様~!」
私は応えるのも忘れて考えに耽っていたけれど、遠くからディルを呼ぶ声がして我に返る。
同時に、掴みかけたなにかがこぼれ落ちていくのを感じた。
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