第7話 第一王子の近衛騎士④

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「大丈夫か?」

「…………」

 扉の前に立つディルの声音は心底心配している優しいもので、溢れ出す思念からも全力で私を気遣っているのが聴こえる。

 心地よい香りのなかで憂う表情も素晴らしく眼福なのだけれど、私は小さく頷くので精一杯だった。


 感情が追い付いてきて震えるほどの恐怖も感じている。

 でも飢えや寒さで死と隣り合わせだった頃を思えば、気付いたら命を奪われていたほうが楽かもしれないなんて身も蓋もないことも思う。

 だから私が精一杯なのは恐怖からではなく、まったく別の理由だ。


 つまり、今後どうしようかということ。


 あのあと、私の絶叫で騎士やら野次馬やらが群がってきたものだからさあ大変。

 牡鹿の仮面の子は風のように逃げてしまったし、そもそも第一王子アスルト殿下はそこにいないのだもの。当然である。

「いま殿下は誰ともお会いにならない。帰ってくれ」と人々を追い払ったディルはかなり疲弊したはずだ。


 ええ、勿論私のせいなのだけれど。


 そして私はといえば、その第一王子アスルト殿下の私室ソファでぐったりしているところだった。

 あの牡鹿の仮面の子が纏っていた思念を聴くのは精神的にも肉体的にも消耗が激しい。

 まだ体のなかに残り香があるような気さえするし、わかっていたけれど呑まれてしまったら自我を破壊されかねない。

 ディルに私が聴いた思念のことを説明すべきだとは思うけれど、話してしまったが最期。もうこの依頼から逃げられないでしょうし。


 腹を括るしかないのか……。


 するとディルはなにを思ったのかポツンとこぼす。

「ごめんな。あんたと約束したのに斥候を捕り逃がした」

「約束はしてないから気にしなくていいわ。ちゃんと助けてもらったし。それに咄嗟に悲鳴を上げてみたものの、結局貴方に迷惑をかけたから」

 返すと彼は身動いで視線を落とした。

「ん、いや……あの悲鳴は助かった。あの牡鹿は迷いがなかったから。本気で命を取りにきていたと思う」

「それは私が甘かったわ。あの子、命を玩具のように感じている。楽しんでいるの、香りは嘘をつかない。だけどディルはちゃんと止めてくれただけじゃなく芝居まで――アスルト殿下に出てくるなって言ってたでしょう? まあ呼び捨てだったけど」

「ん……? え、あれ? そんなこと言ったか?」

 ディルは双眸をギョッとしたように見開くと、口元を押さえて大きく身を捻り背を向ける。

 ぶわぁっと聴こえたのは〈混乱〉と〈恥辱〉――そして〈戸惑い〉。


 嘘でしょう? そそっかしい一面があるのはわかっていたけれどあれを無意識で?

「まさか覚えていないの?」

「うん……まあ、そういう言い方もある。ははっ」

「あぁ、そう。さすがに驚いたけど――貴方は王子殿下を護っているんだものね。貴方が無意識に近衛騎士として動いたのも納得だわ」

「あ、いや、俺はあんたを護りたくて……」

「気にしないで。ディルの護るべき相手は間違いなく第一王子アスルト殿下なんだから」

「え? いや、そうじゃなくて……」

 私はディルが〈哀愁〉〈悔恨〉〈困惑〉の香りをだだ漏れにしているのを聴きながら、視線を上げた。


 ああ、そうか。腹を括るとしたら彼の好意もうまく捌かないとならないのね。応えることは絶対にできないもの。


 そうと決まれば、とりあえず仕事の話に戻すとしましょうか。

「ねぇディル。貴方も多少は聞こえたはず。牡鹿の仮面の子……面倒だから貴方に倣って牡鹿って呼ぶけど、あの子に指示を出した『主さま』とかいうやつは革命を起こしたいと思ってる」

 すっかり冷めた紅茶をカップに注いで机に並べると、ディルの表情がピリッと引き締まった。

「ああ」

「実は思念からもう少し情報が聴けたけれど、確認したいの。これを話したら私は貴方の事情に大きく踏み込むことになる。当然命を奪われたくはないし、貴方の力なしではなにもできない。依頼主さま、それでも貴方は望まれますか? さあ、聴かせてもらいましょう。貴方の思念はどれほどに馨しきものかしら?」

 問い掛けに彼はゆっくりと瞼を瞬き、次の瞬間には強い意志を宿した紅い瞳で真っ直ぐに私を見詰める。


 そのときのディルは――なんというか綺麗だった。


「俺は望む。アスルトを捜し、馬鹿げた革命を阻止しないとならない。どうか力を貸してくれないか。リィゼリア」

 騎士の礼を行う所作は洗練されていて息を呑むほどで。


 なにより――なんて馨しいの。


 聴こえる思念は誇り高く真っ直ぐで、牡鹿の残り香を私の体のなかからすべて洗い流してくれるかのよう。

 私は思わず笑みを浮かべて頷いた。


「香りは嘘をつきません。貴方の馨しき思念、たしかに聴き届けましたわ」


 すると、なにを思ったかディルはソファの隣にやってきて跪き、私の手を取った。

 骨張っていて硬く、剣を振るものの手。けれどその温かい指先は花を愛でるような優しさで私の手のひらに触れる。

「俺はあんたを護る。アスルトがいるなら、アスルトとあんたを両方護ってみせる。騎士としての忠誠はアスルトに捧げたから、俺個人の誓いとして、必ず。約束だ」

「……ちょ、ちょっと⁉」

 待って。待ちなさい!

 いきなりすぎる。いきなりすぎるわ!

「ディル! 貴方、無神経すぎる! 鈍感って言葉も贈るわ!」

 慌てて手を振りほどき冷めた紅茶を飲み干す私に、ディルは微笑んでみせた。

「ははっ、アスルトによく言われた!」

「それはもう聞いたわ!」

 冷たくなった紅茶が火照る体のなかをすーっと滑っていく。

 私は唇を引き結び、とにかく落ち着こうと深呼吸をした。

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