第6話 第一王子の近衛騎士③
鈴を鳴らすように軽やかな声音だけれど、なにかが欠落している気がする。
黒に蒼を混ぜたような髪の下、白い牡鹿の仮面で顔の上半分を覆ったその姿からは性別はわからない。
服は黒と濃茶。いかにも斥候向きの軽装備で腰には短剣。
仮面から伸びた二本の枝分かれした角が私より小さな背を補っている。
相当に若い。というかまだ子供だわ。
「マリーゴールドの花壇は主さまを貶めようとした貴族、森は主さまの敵対勢力、下水は――あはっ、主さまを悪く言っていたおじさんかな? ああ、楽しかったなぁ」
弾む言葉に嘘はない。
この子は楽しんでいる。喜んでいる。ひとの命を玩具のように感じている。
ああ、欠落しているのは慈しみや憐れみ……そういう他者を思う心だ。
どうやったらこんな考えに至るっていうの。
そう思ったけれど私も師匠に拾われなかったらこうなっていたのかもと気づいて――ゾッとした。
「私、第一王子殿下に紅茶をお出ししないといけませんので失礼いたしますわ」
「ええ? うーん困ったな。僕は露払いに来たんだけど」
「その露払いと私になにか関係がございますの?」
「とりあえず払っちゃっていいって言われたんだけど、お姉さん逃げないし、香りが聴こえるなんて素敵だし、どうしようかな」
「とりあえずだなんて物騒ですこと。誰に言われていらっしゃったの?」
「もちろん僕の主さま!」
「……ふう」
私はため息をひとつこぼし、息を吸う。
実際は深呼吸だ。いまも背中は冷や汗でびっしょり。
少しでも怯えを見せれば狩られる気がしていた。
まさか城内で襲うような馬鹿ではないでしょう、なんて考えは甘すぎたのだと気づいても遅い。
けれど、私が逃げずになんとか耐えていられるのはディルの強い思念が――護るという気持ちが聴こえるからである。
大丈夫よ、やれるわ。
主さまとやらが第二王子殿下の側近であれば、私にはきっと判別できるはず。
『異質』のなかに『普通』が聴こえるのならそれが『主さま』だ。
直面した命のやり取りに恐怖も絶望しておらず、愉悦にも似た快楽に溺れておらず、この子に命令する理性がある人物の思念。
「ご希望でしたらもう少し聴いてさしあげますわ? どれほどに馨しきものかしら」
言えば、牡鹿の仮面で隠されていない口元が期待に歪む。
私はその子にまとわりつく思念に意識を集中させた。
頭の奥がガンガンと痛むほどの歪んだ香り。死にたくないという絶叫が聴こえるようで、眩暈がして視界が揺らぐ。
ぐちゃぐちゃな臭い、そのどこかにあるはずの香りを聴き逃すまいと必死に意識を保つ。
そうして――ああ、みつけた。
馨しきは〈革命への願望〉と〈不審〉、〈動揺〉。それからカビと埃が淀んで湿った臭いと、糞尿の鼻を突くような悪臭。最後は気高き白薔薇――。
私が聴く思念の香りは大きく言えば「喜怒哀楽や絶望、愛憎、なにかを成したい願望といった感情」と「場所、物、人などの情景やそれを象徴するもの」のふたつ。
これに当て嵌めるならば、前半は革命を起こしたいけれど不穏な動きがあったかなにかで動揺しているってこと。
正直、第二王子派閥が革命だなんて物騒どころか国家転覆を図る大罪の可能性だってある。
たしかディルの母親は国が戦争に巻き込まれると言っていたわね。本当に聞きたくなかったけど。
とにかく、不穏な動きが私のことであれば納得なのだけど、後半……下水とも違う臭いと白薔薇はなに?
ああ、もうやるしかないわ。ここまで聴いてしまったんだもの。
私は腹の底に力を入れて、震えそうな自分を律した。
「革命を起こすのに不都合があった、といったところね。革命に必要ななにか、もしくは誰かが辛気臭い場所にでもいらっしゃる?」
言葉にしたその瞬間をどう言ったらいいのか。
少し離れた場所にいた牡鹿の仮面の子が「あはっ」と無邪気に笑ったかと思ったら……。
「させない!」
突き飛ばされて、私がいた場所に紅髪の男性が立っていて。
ギィンッ
金属と金属のぶつかり合う鈍い響きが耳朶を打つとともに、廊下の壁際に尻餅を突いていた。
「邪魔しないでくれるかな、近衛騎士」
「それは無理な相談だ」
もしかして襲われた?
いえ違う。襲われるどころか命を持っていかれるところだった、そうよね?
理解したときにはディルが私の前に回り込み、牡鹿の仮面の子と睨み合っていた。
そして。
「アスルトッ! 絶対に出てくるなよ!」
突然発せられたディルの言葉に「アスルトって誰よ」と言いかけたけれど、第一王子殿下だと思い当たる。
こんなときでも芝居ができるとは、本当に優秀なのね。
なんて……呑気に考えているのは冷静だからではない。感情がついてきていないだけだったりする。
いま、私にできることは――?
抑揚もなく考えながら、とにかく壁に手を突いてゆるゆると立ち上がり……。
「ッきゃああああああ! 誰かあッ! 第一王子殿下が狙われているわああぁッ!」
私は、自分でも信じられないような絶叫を轟かせていた。
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