不確定な未来



 その後の事を、ラエラは覚えていない。


 気がつけばいつの間にかテンプル伯爵家に戻っていて、部屋着で自室のベッドに突っ伏していた。




『僕が18歳になった時、あなたの隣には素敵な夫が立っているのでしょうか』



 ヨルンの言葉が。


 苦しそうで、寂しそうで、まるで縋るように小さな声で告げられた言葉が、ラエラの頭の中で何度も何度も繰り返される。まるで壊れたオルゴールだ。



 今日、婚約者の裏切りと不貞相手の妊娠という、間違いなく人生最悪の出来事がラエラの身に降りかかったにも関わらず、心の中に根源の二人はもうどこにもいない。

 怒りも悔しさも、悲しみや落胆すらどこか遠くに行ってしまった。いや、消えてしまったと言っていい。


 すべて―――そう、最後にすべて、ヨルンがさらっていった。






『わたくし、あなたのことが、とても、とても好きだったわ』



 意趣返しのつもりでアッシュに告げた決別の為の愛の言葉に、嘘はなかった。


 あったとすれば、たったひとつ、涙だけだ。


 ラエラは簡単には泣けない性質たちだから、瞬きを我慢して無理に涙を出す小細工をした。


 狡い計算だった。アッシュはラエラの泣き顔など見た事がない。そんな女が、別れを告げながら涙を流したのだ。あの時のアッシュの驚愕も頷ける。


 今頃二人は揉めているだろうか。そうかもしれない。あの時のラエラは、そうなればいいと思ってやった。その数時間後にはもう、二人の事など塵ほどにも思わなくなるなんて想像もしなかったから。


 だって誰が思うだろう、実の弟のように思っていた婚約者、いや元婚約者の弟からあんな・・・




「ヨルンさま・・・」



 あの時、ラエラは何も言えなかった。言える言葉などなかった。


 

 だって、ヨルンはラエラに好きだとも、婚約してほしいとも言っていない。


 強く、激しく、重いヨルンの気持ちは、確かにラエラに伝わった。けれど、それだけだ。ヨルンは分かっているのだ。5歳という年齢の壁が、今のラエラにとって、とてつもなく高くそびえ立っている事を。



 18歳の結婚適齢期の令嬢と、13歳の社交デビューもまだの少年。


 性別が逆ならまだしも、ラエラの方が年上なのだ、組み合わせとして有り得ないと誰もが判断するだろう。







「・・・そうだわ、うっかりしてた。今日の事をお父さまに報告しないと」



 今日、突然に、ラエラの未来は不確定になってしまった。



 半年後には結婚する筈が、相手も結婚そのものもなくなった。


 リンダの妊娠が判明したのが昨日、せめてもう少し前に分かっていたなら、在学中に働き先を見つける事も出来たかもしれないのに。



「お父さまはきっと、家にいてもいいと言ってくださるでしょうけれど・・・」



 ラエラとしては、出来る事なら遠慮したい。来年に兄の結婚が決まっているのだ。家に小姑がいては気を遣わせてしまう。



「何とかして働き先を見つけないと・・・そうだわ、アナベラに相談してみようかしら」



 アッシュとリンダの事で、いつもラエラを気にかけてくれた親友。幸い、卒業式前日に会う約束をしている。公爵令嬢の彼女は顔も広いから、どこか紹介してくれるかもしれない。



 精神的に疲れていたのだろう。結局ラエラはその日、夕食も取らずに眠ってしまった。



 翌朝になり、ラエラはまず父親にアッシュとの婚約解消について報告した。


 父―――テンプル伯爵は怒髪天を衝くほどの怒りようで、アッシュの言った婚約解消ではなく、あちら有責の婚約破棄だと息巻き、その日のうちにロンド伯爵家に乗り込んで、宣言通り婚約破棄を決めてきた。



 ロンド伯爵夫妻は平身低頭でアッシュの不貞を詫び、ラエラへの申し訳なさを何度も口にしたが、テンプル伯爵はすぐに謝罪を受け入れず、遠縁の娘への対応の甘さを批判し、猛省するよう告げた。



 この時、テンプル伯爵はヨルンとも会ったらしい。手紙を頼まれたと、帰邸してからラエラに渡した。



 手紙にはこうあった。



『どうか昨日の事は負担に感じないでください。僕はラエラさまが自由に生きる事を望んでいます。ただ、僕があなたを想い続ける事だけは許してください』






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