怒りのヨルン



『ごめんなさい。アッシュはラエラさんの大切な人だって分かってたのに・・・あたしなんかが好きになってしまって、本当にごめんなさい』


『ちゃんと君と結婚するつもりでいたんだ。だが、こうなった以上は、きちんと責任を取ろうと思っている。・・・君は強い人だから、僕がいなくても大丈夫だろう? だけどこの子は違う。放っておけない。僕が付いていてあげないと』




 とても―――とてもショックで。


 腹が立って、苦しくて、悲しくて、悔しくて仕方なかった。



 二人とも謝罪の言葉は口にしていたけれど、ちっとも謝られている気がしなかった。


 『ごめん』と言いながら、ラエラを見ていない。


 互いが互いを悪くない、自分こそがいけないのだと、ラエラの前で庇い合う。



 ラエラに謝っている筈なのに、まるで、ラエラがそこにいないかのように、互いだけを見つめて。



 挙句、出た台詞が『君は強いひとだから』。



 この時。


 ほんの一瞬、ラエラは本気で二人に死んでほしいと思った。



 ―――いや。


 四阿から飛び出し、庭の隅で涙を堪えていたラエラをヨルンが見つけていなかったら。


 ヨルンがオレンジ色の液体の入った小瓶をラエラに見せていなかったら。


 ラエラの怒りは―――あの一瞬の殺意は、明確な形を持ってしまっていたかもしれない。



 そう。


 あの時、ヨルンが窓から声をかけてくれなかったら。











「・・・ラエラさま? そんな所でどうなさったのですか?」



 衝動的に四阿を飛び出したラエラが、一本の高木に手をついて懸命に息を整えていた時、上から声が聞こえた。



 見上げると、屋敷の窓から心配そうにラエラを見下ろしているヨルンがいた。


 ヨルンはロンド伯爵家の次男で、アッシュの5つ離れた弟だ。

 伯爵や夫人、嫡男のアッシュがリンダに親切になっていく一方で、ヨルンは一定の距離を置き続けた。


 その日ラエラが屋敷に来ていた事を知らなかったのか、それともラエラが泣きそうになっている事に気づいたのか、ヨルンは焦った顔で言った。



「・・・っ、そこで待っていてください。奥庭なので、道が分かりにくいと思います」



 そう言うとヨルンの姿が窓から消え、程なく屋敷の裏側から現れた。






「バカな兄がすみません」



 ヨルンはサロンにラエラを通し、メイドにお茶を用意させた後で人払いを命じた。もちろん扉は開けてある。



「いえ、兄だけではありませんね。父も、母も愚かでした。ラエラさまには大変不快な思いをさせてしまいました」


 13歳なのに、ヨルンはとてもしっかりした口調でラエラへの謝罪の言葉を紡いだ。


 ロンド伯爵家で、ヨルンだけがリンダの扱いに疑問を口にしていた。だが家族の最年少が呈する苦言に、両親や兄が真剣に耳を傾ける事はなく、結局アッシュとリンダは男女の一線を超えるまでになってしまった。



「兄はともかく、父や母は二年前にリンダを引き受けた事を後悔しています。まあ・・・今さらですけどね」



 本当に今さらだ、とラエラも思った。


 もうラエラとアッシュが結ばれる未来は消えてしまった。婚姻衣装だって注文していたのに。


 好きな人も、結婚式の予定も、幸せな未来も、何もかもが消えてなくなって、自分ひとりがアッシュを好きだったという残酷な事実だけが残った。



 なのに、恋心だけがそう簡単に消えてなくなってはくれない。


 だからラエラは、今も苦しくて、腹が立って、悲しくてたまらないのだ。



「ラエラさまのような素敵な女性がいながら、あんな中身のない女に引っかかるなんて」


「・・・素敵だなんて、そう言ってくれるのはヨルンさまくらいだわ。アッシュの目には何の魅力もなかったのだもの」



 ラエラは、自分で言っていて悲しくなった。


 今回の件は、ラエラの自尊心をぐちゃぐちゃにした。アッシュが本当に好きだったのだ。彼の為になる事なら何であれ努力を惜しまなかった。

 けれど、それらのうちのどれ一つアッシュに評価されていなかったと、ついさっき知ってしまった。



「今はまだ悔しいし、どうにも腹が立って仕方ないけれど、アッシュにみっともなく縋りたくはないんです。

でも頬を引っ叩くくらいはしたいかも、なんて・・・」


「駄目です」



 いつものヨルンとは違う低い声で遮られ、ラエラは慌てた。ヨルンが自分に同情的だからと、調子に乗ってしまった。



「ご、ごめ・・・」


「叩いたら、ラエラさまの手が痛くなってしまいます」


「え?」



 ヨルンは手を伸ばし、テーブルの上にあったラエラの手の上に、自分のそれをそっと重ねた。



「あんな奴らの為に、わざわざ痛い思いをする必要はありません」



 真っ直ぐ視線を合わせ、そう言われてしまえば、なんだか擽ったい気持ちになる。



「そ、そうよね。暴力はいけないわ。うん」


「やるなら毒の方がいいと思います。それなら手を痛めませんし」


「・・・」



 今なんて?



 驚きで目を丸くしたラエラを見て、ヨルンはふっと笑みをこぼした。



「・・・きょとんとして可愛い・・・残念だなぁ、五歳も年下でなければ、すぐ立候補できたのに」


「え?」



 ぽそぽそ、と呟いた言葉はラエラの耳に届かず、思わず聞き返すもヨルンは何でもないと首を振った。



「それより、あの二人は僕がしっかり懲らしめておきますから安心してくださいね。もう、次男として支えようなんて気はこれっぽちもありません。僕は兄から後継の座を奪ってやります」


「え? ええと?」



 衝撃発言ばかりを口にするヨルンに、ラエラは驚いて言葉を失った。



 ヨルンとはこんな少年だったろうか。


 大人しく、もの静かで、本の虫。いつも穏やかな笑顔で、控えめで。



 そんなイメージだったヨルンの突然の変貌に、ラエラはぱちぱちと目を瞬かせた。








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