18.万年筆
翌日、広場で歌い終わったノアに誕生日のことを切り出した。
花壇に並んで座ったノアは一瞬不思議そうな顔をして、でもすぐさま複雑惣な表情に切り替わる。
やっぱり気が進まないんだろうか。
「悪い、貴族の誕生日会なんて嫌だよな。断ってくれて全然いいから」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、本当に僕が伺ってもよろしいのですか? お兄様は僕のことをご存じで?」
おずおずと訝しむようにノアが問いかける。
吟遊詩人の印象はだいぶ良くなっていると思うが、貴族となると話は別だ。普通の庶民すら見下して差別する奴らも多いのだから、吟遊詩人なんて好意的に思われるはずがない。
でも、リュシアン兄さんは違う気がする。
「はっきりとは伝えてないけど、結構鋭いからわかってると思う。それで連れてこいって言ってるんだから問題ない」
ノアは少し考えてから、小さく頷いた。
「フレディの誕生日に呼んでいただけるなんて光栄なことですね。喜んで伺いましょう」
「ありがとう! ギャラは弾むからな」
「それには及びません。お友達としてお伺いするのですから」
「友達……でいいのか?」
「お兄様は、友達を呼ぶように言われたのでしょう?」
さすがにパトロンをしてるとは言いづらいからな。
なんて考えていると、突然ノアが俺の肩に手を乗せてグッと顔を近づけた。
「それとも、本当のことをお伝えくださるのですか? 自分の恋人だと」
「な、ななななに言ってるんだよ! 俺とお前は……ああっ!」
立ち上がった拍子に、傍に置いていた万年筆のインクボトルをひっくり返してしまった。ボトルの蓋がしっかり閉まっていなかったらしい。
慌てて拾い上げたが、インクは石畳の隙間を辿って真っ黒い川を作っていく。
「ああ、やっちまった……」
「大丈夫ですか? お召し物が」
上着の裾が黒く汚れていた。
万年筆のインクって落ちるんだろうか。ああ、うちの場合は汚れたら新しい服をオーダーしているはず。
引きこもりの服なんてどうでもいいから久しく服を新調していなかったが、こんなことで。
「インクなんて持ち歩いてるから、いつかやらかす気がしてたけど……」
「フレディはいつも万年筆を持っていますね」
「ノアの歌を書き留めるためにな」
最初は歌詞を書いているだけだったが、最近ではいつ何の曲を歌ったかメモをするようにもなっていた。
その日の客の反応がどうだとか、ちょっとした日記代わりにもしている。
忘れる前にその場で書こうと万年筆を持ち歩いていたが、こっちの世界にはつけペンしかない。
ペンを持ち歩くならインクも持たなくてはならず、結構面倒だった。こんな悲劇にも繋がるし……こんなところに置いていた自分が悪いんだが。
「内蔵型のインクがあればいいんだけどな」
異世界でインクカートリッジ内蔵のペンを作れば、大儲けできるのに。残念ながら俺にそんな技術はない。
「フレディは書き物がお好きなんですね」
「好きってほどじゃないけどな」
「でも手帳にペンを走らせているあなたは、とても楽しそうですよ。知的で聡明だと、いつも思っていました」
それはノアのことを書いているからだ。
こっちの世界にはSNSもない。推しのことを書く欲求が溜まっているというのもある。
それにしても俺が知的で聡明なんて、万年筆がかっこよく見えているだけだろう。眼鏡かけてれば利口そうに見えるのと同レベルだ。
それでもノアに言われると、嬉しいことには違いない。
本当に俺を喜ばせることが上手いんだよな。
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