淋しい夜は死んじゃいそうだから
yaasan
第1話 淋しい夜は死んじゃいそうだから
金色に染めた髪を少しだけ逆立てたライダースの黒い革ジャンを着ている若い男が、興味深そうに歩きながら私を見て行く。
くそっ! くそっ! くそっ!
私は電信柱の横にあった段ボールを心の中でそう呟きながら、上から何度も踏みつけていた。
奇妙な行動をする者がいても、夜の歌舞伎町ではそれほど珍しい光景ではないのだろう。二十九歳の女が電信柱の横にある段ボールを何度も踏みつけていても、周囲を行き交う人々は何事かと一瞬だけ目を向けるぐらいの反応だった。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
心の中で悪態をついていたつもりだったけれど、いつの間にかに口から漏れ出ていたようだった。荒い息と共に自分の声が耳から響いてくる。
次の瞬間だった。さして高くもないパンプスのヒールが段ボールを踏み抜いてしまう。片足を持ち上げたら、ヒールにぶら下がるようにして段ボールがついてくる。
ヒールにぶら下がっている段ボール。
何とも間抜けな絵面だった。でも、それを見ていたら何だか急にとても悲しくなってきた。
だけれど、泣くわけにはいかない。いい歳をして男にフラれたぐらいで泣いてるわけにはいかないのだ。
全てはあのパワハラ上司がいけない。中小で大した規模の広告代理店でもないのに、プライドだけは一人前。
提案書のやり直しが続いて、いつもの如く企画部の連中が途中で匙を投げてしまった。収拾がつかなくなって、パワハラ上司の指示通りに営業職の私が修正する日々。
マーケティング部でも企画部でもない私が修正をしたところで、画期的な企画が作れるはずもない。土日祝日も関係なく稼働して、ダメ出しを喰らい続けてデートも自分の誕生日ですらもすっ飛ばした一ヶ月。
そうして出来上がった提案書は作った私でさえも首を大いに捻りたくなるような代物だった。もちろん、そんな提案書などはクライアントから高評価を頂戴できるはずもなくてプレゼンは惨敗。プレゼンの最中、担当者を始めとした出席者の頭上に、はてなマークが浮かんでいるのを私は見た気がした。
プレゼンに同行していたパワハラ上司は、失注ということで当然のように怒り狂う。そもそが自分の指示で出来上がった提案書。しかし、そんなことなどパワハラ上司には何故か関係がないらしい。プレゼンをした、仕切った私が悪いということになるようだ。どういう論理なのだろうかと不思議になってくる。
……ま、いつものことなのだけれども。
一年近くに渡って付き合ってきた彼氏はと言えば、仕事を最優先にして一生懸命に仕事をする君は素敵なのだけれども、僕は付き合っていけないとのことだった。さっき、自殺したくなるぐらいに安っぽいチェーン店の居酒屋で、そう告げられたばかりだった。
よりによって別れ話をこんな所でしなくてもいいだろうと思う。それとも、別れる女に金をかける必要はないということなのか。
素敵だって言うんなら、そのまま付き合っとけ!
心の中で悪態をついて、私はヒールで踏み抜いてしまった段ボールを外そうと、宙で足をぶらぶらとさせてみる。
……駄目だ。全然、取れない。
はたから見てると相当に間抜けな姿なのかもしれない。きっと酔っ払いが暴れているようにしか見えないのだろう。
それとも単に頭のおかしな女が暴れているのか。
ちくしょう。くそっ。
私は心の中で再び悪態をつく。
別れを切り出された二歳年上の彼は優しいことだけが取り柄だった。少しだけ頼りなくてマザコン気味ではあったけれど、でも結婚相手としては申し分がなかった気がする。
実際、あと一年ぐらい付き合って結婚だろうと思っていたのに。
……それなのに! 何なのよっ!
結婚しても仕事は続けたいといつも言っていたのが間違いだったのだろうか。でも、今のご時世ならば共働きなどは当たり前ではないだろうか。
そりゃあ彼はそれなりの企業で働いていて、贅沢をしなければ彼の収入だけで普通に生活していけるだろう。だけど、私は働きたかった。専業主婦を否定するわけではなくて、働くことが好きだった。
もっと言えは、広告代理店という仕事が好きだった。例えどのような物であっても、物を創造するという作業は楽しい。そりゃあ最大手の代理店みたいにメディアの仕事をガンガンやってというわけにはいかない。だけれども自分が手がけた映像やweb、そして紙媒体などを街中でみかけると、単純にそれだけで嬉しくなる。
ま、私は営業職だからクリエイティブの要素にはあまり関わっていないのだけれども。それでも、クリエイティブの方向性を決めて最終的なジャッジをするのは営業職の私なのだ。ちょっとしたコピーならば自分で書いたりもする。物づくりに関わっていると言ってもきっと間違いではない。
段ボールに片足を入れたまま、仁王立ちの私は大きく溜息をついた。やっぱり仕事を最優先してしまうような女性は結婚相手には適さないのだろうか。別れを切り出した彼のように敬遠されてしまうのだろうか。
別に私だって仕事をガンガンとしたいわけじゃない。
だってしょうがないじゃない。私は営業職で、問題があるからといって仕事を途中で放り出せるはずもない。自分の仕事は何があっても自分で完遂させないとどうにもならないのだから。
そりゃあ、どうにもならなくなれば土日だって、誕生日だって嫌だけれど仕事をする。
……そりゃあ敬遠されるよね。
結婚をすれば旦那の面倒をみて、子供の面倒をみて。そのような毎日が待っているはずなのだ。仕事だからって土日も関係なく働くような感じでは、そのような毎日の相手としては首を捻りたくなるのが普通の反応なのかもしれない。
私はもう一度、大きな溜息をついた。そこまで考えていたらまた悲しくなってきた。結婚する機会を逃したというよりも、機会があると思っていただけで本当はそんな機会などはなかったのかもしれない。
そんな時だった。片足を段ボールに入れて仁王立ちになっている私に声をかけてくる人がいた。
「……何してんだ、姉ちゃん? 随分と面白い格好だな」
どこからどう見てもヤクザだった。ヤクザの見本市があったら張り切って出品できるようなヤクザだった。歳は三十歳半ばぐらいだろうか。その隣には二十歳をいくつも越えていないようなホストみたいな若い男を連れている。
「酔っ払ってんのか? 段ボールに足なんか入れて。それともクスリか?」
ヤクザの男が再び口を開く。その様子は絡んでいるとか揶揄っているとか、そんな感じはなくて心底不思議そうな感じだった。
「え、あ、いえ……」
咄嗟に何て言えばいいのか分からずに私は言葉を濁す。
「何だ? 俺の言っていることが分からねえのか? 日本人か?」
「あ、はい。日本人です。でも、大丈夫です」
その返答に男はますます不思議そうな顔をする。
「大丈夫じゃねえだろう。段ボールを足にぶら下げて、道の真ん中で仁王立ちになってるんだ。周りの奴だって、やべえ奴がいるって避けて歩いているんだぜ」
ヤバい奴ならそれでいいので、ヤクザの男も一緒に避けて行ってくれないだろうか。大体、ヤクザのアンタの方がヤバいでしょうに。私は救いを求めて隣の若い男に視線を送った。
そんな私の視線に気がついたようで、若い男が口を開いた。
「斉藤さん、ほっときましょうよ。どうせ酔っ払いか、クスリでラリってるだけでしょうから。また、厄介ごとに首を突っ込むことになっちゃいますよ」
「またって何だよ?」
斉藤と呼ばれた男の言葉に少しだけ険が含まれたようだった。一瞬、若い男の血の気が下がったように見えた。
「いや、この間だって、デブの頭をカチ割って大変だったじゃないですか。死ななかったからよかったですけど。大事にならなかったのは、たまたまデブが自分の家族を殺してたから……」
「うるせえよ、ハジメ。あのデブに最初に絡んだのは、お前だろう?」
「そりゃあ、そうですけど……」
この人たちは何を言っているのだろうか。頭をカチ割るとか、死ななかったからよかったとか、家族を殺していたとか……。
いずれにしても関わってはいけない人種であることは間違いがなかった。ま、見るからにこの人たちはヤクザなのだからそれも当然だ。
「あ、あの、大丈夫です。少し、酔っ払っちゃって……」
私は愛想笑いを浮かべる。クライアントをいつも虜にしているはずの営業スマイル。私の必殺技だ。効果の程はよく分からないけれど。
あははと笑う私にヤクザの男が口を開いた。
「まあ、どうでもいいけどよ。こんなところでラリってると、変なところに連れていかれちまうぞ、姉ちゃん」
……いや、だからラリってるわけじゃないんだって。
ヤクザの男はそう言うと、片手を軽く振って歩き出した。既に私なんかには興味をなくしたらしい。若い男が慌ててその後を追って行く。
風体はヤクザそのものだったけれど、存外にいい人だったのかもしれない。やたらに物騒なことを言っていたけれども。
見るからにヤクザのような男に絡まれていたというのに、周囲の人たちはそれを気にかける素振りもない。巻き込まれたら面倒だとでも思ったのだろうか。それともここでは見慣れた風景なのか。
私は少しだけ溜息をついて片膝を地面につけた。パンツが見えちゃうわねと思ったが、どうでもよかった。
今日、久しぶりに彼に会うからということもあって、年がいもなく少しだけ短いスカートを履いてきたというのに……。
そう思うとまた悲しくなってくる。私はその思いを飲み込みながら、両手でパンプスのヒールがめり込んだ段ボールを取って、それを無造作に投げ捨てた。
行き交う人の数人がその様子を目で追っていたようだったが、特に何かを言われることはなかった。
私は周囲を軽く見渡した後、新宿通りに向かって歩きだす。
結婚を考えていた男にフラれた。
パンプスのヒールが段ボールにめり込んで取れなくなった。
ヤクザに絡まれた。
あれ? 絡まれたわけではないのかな。
何だかなあと私は思う。
そして、そっかあと私は思う。
もう、彼とは会えないのだ。どれだけ好きだったのかと言われると、正直微妙なところだった気もするのだけれども。
でも微妙だろうと何だろうと、きっと好きだったのだ。何の特徴もないような当たり障りのない顔。大して高くもない身長。痩せている体。私とは正反対で控えめな大人しい性格。
それら全部がきっと私は好きだったのだ。
もう彼とは会うことがないのだ。会えないのだ。そう思うと急に淋しくなってきた。淋しくてまた悲しくなってきた。
歩きながら右側の頬を涙が一筋だけ伝っていくのを私は感じた。
こういう淋しい夜は嫌いだ。
淋しい夜は自分が死んじゃいそうだから……。
くそっと私は思う。
くそったれと私は思う。
そう思いながら、私は淋しいと思う心を自分の奥深くに押し込める。
別れを切り出した彼といい、パワハラ上司といい、私の世界はいつだってままならないのだ。
私は歩きながら舌を思いっ切り出してみた。外で舌を出すなんて何年ぶりだったろうか。
私をびっくりした顔で注視する人がいても関係なかった。できるなら中指も立てたいところだ。だけれども、二十九歳という年齢が辛うじてその行為を押し留めたようだった。
かつてパンクスの先達たちが歌っていた。
そんなこと言う世界なら僕は蹴りをいれてやるよと。
そんな世界ならぶん殴ってやると。
私は足を止めて軽く深呼吸をする。
私の世界はいつだってままならないのだ。
「くそったれ!」
わたしは呟いて、アスファルトをパンプスのヒールで思いっきり蹴りつける。
生まれた時からパンクだなんて気の利く台詞、言いやしないが。
かつてそう歌っていた先達たちのその歌詞が、歌声が私の中で鮮やかに蘇る。
パンクロックはきっと世界を救えない。けれど、パンクはきっと私を救うのだ。
私は新宿通りに向かって颯爽と歩き出す。折れてしまったパンプスのヒールも気にしないで。
淋しい夜は死んじゃいそうだから yaasan @yaasan
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