第七夜 誰もいない

 今日は手が空いた時に事務所の掃除をして欲しいと店長に頼まれました。

 事務所にはいらない紙や使い終わった後のインクの替え芯などが乱雑に置かれていました。

 なんでも今日の昼に店長が自ら掃除するつもりだったらしいのですが、急用ができてしまい、片付けられなかったそうです。

 なので私が後片付けを任された、ということです。


 あらかたの掃除を終え、お客さまの来店も減り手が空いてきたので、私は事務所にこもって掃除をしていました。

 お客さまの来店は事務所内で見れるカメラから確認できるので、時折ちゃんとカメラ映像の確認をすれば事務所にこもっていても問題ありません。

 私はチラッとたまに監視カメラの映像が映るモニターを覗きながら、ゴミはゴミ箱へ。大事な書類はファイルに仕舞って棚の中に入れておきました。


 事務所内の掃除を始めてどのくらい時間が経ったでしょうか。モニターを確認していましたが、事務所の掃除中は誰も来店されず、集中して片付けができました。

 その片付けも終わりに差し掛かり、バックヤードにいるもう一人の相方さんも片付けが終わりそうです。

 これは直接バックヤードに行かなくてもモニターを見ればわかります。実はお客さまが入れないところにも監視カメラは設置されているのです。

 もちろん、私が今いる事務所にも監視カメラは設置されています。なので今も私の上からの図がモニターに映し出されています。

 きっとサボっている従業員や、金庫のお金を盗む悪い従業員を見張るためでもあるのではないかと思いますが、本当のところはわかりません。少なくとも私の知る範囲ではそんな悪い従業員さんはいないはずです。

 事務所の片付けが終わったらトイレに行こうかな、と思い事務所のドアノブに手をかけます。

 その時、ドアの向こうからコンコンとノックの音が聞こえました。


「……え?」


 おかしいです。先程モニターを見た限りだと、今店内にはお客さまは一人もいません。そして私以外の従業員はバックヤード、つまり事務所の真反対にいるはずなのです。

 ならば、誰がノックしているのか。

 私はすぐに振り返り、モニターをチェックしました。そこには売り場から事務所に繋がる扉が見える画角のカメラ映像もありました。

 しかしそこには誰の姿も映っていません。

 気のせいかと思い、私は息を吐きました。

 すると背後からまた、コンコンとノックの音が聞こえました。私の視線はモニターに向いたまま、そしてそのモニターにはやはり誰の姿もありません。

 それなのに、背後からたしかにノック音が聞こえてくるのです。


「あけて」

「っ⁉︎」


 思わず悲鳴をあげそうになって、とっさに口を手で覆いました。

 誰もいないはずなのに、扉をノックされる。そしてそれだけでは飽き足らず、声が聞こえてきました。

 恐怖を覚えて当然のはずです。私はカタカタと震えながら、そっと扉の方へ視線を動かしました。

 事務所の扉は一部がすりガラスになっています。なので誰かが事務所前に立っていれば、そのすりガラス越しに体格が見えるはずです、が。

 そこにはなんの影もありませんでした。

 監視カメラの映像、そしてすりガラス越しの光景を見て、私の頭はこれは霊的な現象だと判断してしまいました。

 気のせいというにははっきりと聞こえた音と声。こんなに怖い思いをするなら、いっそのこと誰か人間が事務所に勝手に侵入しようとしていた方が良かったです。


 コンコン、コンコン。

 ノックの雨は鳴り止みません。

 そして時折ノイズのように混じる、開けての声。

 開けてもなにも、この事務所には鍵などかかっていません。ドアノブをひねれば簡単に空いてしまう扉なのです。

 それを扉の向こうにいるなにかに勘づかれてしまえば、私はどうなってしまうのでしょう。

 怖くて足が震えて、助けを呼びたくても声も出せません。

 モニターを覗いてみます。けれどやはりそこには誰もおらず、ただただバックヤードでもう一人の従業員の方が段ボールを片付けているだけです。

 いっそこのカメラが壊れていて、本来なら映るはずの映像が映っていない状況ならいいのに。そう思っても現状は変わりません。

 ずっと扉越しにノックの音が鳴り続けています。

 今にも悲鳴をあげてしまいそうになる気持ちを堪えて、息を殺して音が止むのを待ちます。

 きっとすぐに止むことでしょう。もしかしたら私がただ疲労からくる幻聴でも聞いているのかもしれない。そう思い込むようにして、床に座り込みました。

 モニターの映像は変わらず、ノック音の止まらない。誰かの開けてという声が何度も、何度も聞こえてきます。


 もし、ここで扉を開けてしまえばどうなることたら。良い方には転ばない、なぜかそう確信しているからこそ私は息を殺して向こうが諦めるのを待ちました。

 これがテレビでやっている恐怖映像系の番組なら、今頃私は都合よく気を失って気がつけば朝になっていることでしょう。

 しかし不眠のせいか、それとも恐怖耐性に強いのか私の意識が途絶えることはなく、ずっとノックの音を聞き続けました。

 それが三十分ほど続いた頃でしょうか。急にノックの音が止みました。

 やっと諦めてくれたか、と私が安堵で息を吐こうとした瞬間、


「いるんでしょ」


 扉越しに聞こえた声に、吐きそうになった息をそのまま飲み込みました。

 向こうは私が事務所の中にいることを知っている。それに気がついた時、絶望に似た感情を抱きました。

 なにをやっても詰み、そう思うと涙が溢れます。

 モニターには依然誰の姿も映らないまま。普段ならそろそろお客さまがちらほら来店されてもおかしくないというのに、誰もこずバックヤードにいる従業員も戻ってくる気配がありません。

 怖くなった私は腰を抜かしたままジリジリと扉から離れて、事務所の机にしがみつくように後退りしました。

 ここからではモニターの映像は見えません。ですが問題はないでしょう。どうせモニターを見たところで誰の姿も映らないのだから。

 私は片手で口を覆い、もう片方の手を後ろにやりました。少しでも扉から離れたかったのです。

 そしてその後ろにやった手がなにかに触れました。それは机の下に潜り込んでいた紙のようで、電話番号が書かれていました。

 たった一瞬、その紙に気が取られた時、事務所の扉がガタガタと揺れ始めました。コンコンだったノック音がドンドンと激しいものに変わり、ノックの衝動で扉が震え始めたのです。


「あけろあけろあけろ」


 声もどんどんと気性が荒くなっている気がします。


「あけろ!」


 怒鳴り声が聞こえました。おそらくこの声は静かなバックヤードにも響き渡ったことでしょう。しかし相方さんが駆けつけてくる気配はありませんでした。

 私は恐怖で先程拾った埃を被った紙をぎゅっと握りしめました。

 紙に皺ができ、電話番号が潰れて見えます。


「!」


 電話番号の上には寺の名前が書かれていました。その寺はこのコンビニと道路を挟んでお隣あっているお寺でした。

 私は藁にもすがる思いでその電話番号に電話をかけました。

 震える手で握りしめたスマホが呼び出し画面から通話中に切り替わる。

 私はなんとか声を振り絞って電話の向こうに状況を伝えます。すると電話越しにすぐに行きますと言葉を投げかけられ、私は激しいノック音に耳を塞ぎながらお寺の人が到着するのを待ちました。

 五分、いえおそらくもっと短い時間で、ノックの音が止みました。


「……」


 それでも怖くて動けません。私は耳を塞いだまま、目を瞑ってただ震えていました。

 コンコン、またノックの音が聞こえました。


「おはようございます。先程電話をとったものですが」

「っ!」


 塞いだ鼓膜から微かに聞こえたその言葉に、私は顔を上げるとモニターを見ました。するとそこには作務衣を着た以前見たことのある男性が、事務所の前にいるのが映っていました。


「い、今開けますっ!」


 私が扉を開けると、そこにはモニター越しに見えたのと同じ男性が立っていました。


「事情はお察しします。大変でしたね」

「あ、ありがとうございます〜!」


 数時間ぶりに見る空は少し明るんでいました。ガラス越しに光を浴びながら、私は脱力して涙をこぼしました。


「私はなにもしていませんよ。なぜか私がここに来ると勝手に音が鳴り止むそうなんです。私の気配を察知して逃げたんでしょうね」

「そ、それって前例があるってことじゃないですかぁ」

「はは、まぁ、何度かは。ですがあなたが扉を開けなくて本当に良かった」


 住職さんは人の良さそうな笑みを浮かべて私に手を差し出してくれました。私は腰が抜けてしまいましたが、なんとか住職の手を借りて立ち上がりました。


「もしまた同じことがあればうちに電話を。そして絶対に扉は開けないように」

「はい」


 住職と言葉を交わし、お礼を言ってお寺に戻っていくのを見送りました。

 その後バックヤードにいた相方さんが戻ってきたので先程の話をすると、疲れているんじゃないですかと鼻で笑われてしまいました。

 たしかに信じ難い話ではあるかもしれませんが、私にとってはたしかに体験した現実です。夢ではありません。

 信じてもらえなかったことに悲しみを覚えたものの、時間が経つごとにあれは私が幻聴を聞いていただけなのでは、と私も自分自身を疑い始めてしまうようになりました。

 現実味が無い話過ぎたからでしょうか。それともそう受け取らないと平常心を保てないと無意識的に判断したからでしょうか。

 とにかくなにかあった時のためにお寺の電話番号は連絡先に登録しておきました。

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