第百五十三話 二人の道

 雨上がりの平日。日差しが照りつく快晴の青空の下で、一人の男が濡れたベンチに腰掛けた。


 ビチャン。とベンチに溜まった水が跳ねることを気にも止めないその男は、煙草を取り出しながら空を見上げる。


 雨上がり、虹が掛かるほどの綺麗な空が、その男には空っぽに見えた。


「……」


 男の名は青峰あおみね龍牙りゅうが。北地区のエースにして、かつては全国大会で猛威を振るっていた男である。


 今の龍牙は大会の帰宅途中だった。


 北地区で開かれる小さな大会。そこで『将来はプロ棋士になる素質がある』ともてはやされた天才児がいた。


 龍牙はその天才児を相手に優勢を築くと、そのまま勝ち切るわけでもなく相手の駒を全て取る、いわゆる全駒ぜんごまをし、二度と将棋に興味が湧かないよう徹底的に叩き潰す。


 負けていても詰まされるまでは投了しない、そんな子供特有の性質を逆手に取って、龍牙はその天才児を徹底的に追い詰める。


 やがてその天才児は泣きわめき、母親が怒鳴りながら介入し、それでもルールの範疇のことしかやっていないと一点張りで押し通す龍牙の極悪非道な行為は、もはや北地区では見慣れた光景である。


 そんな、多くの者達から数えきれないほどの恨みを買っている龍牙の行為を大会の運営側が咎めないのは、彼が一種のストッパーになっているからだった。


 どんなに最悪な選手であっても、彼は対局という戦場の中で暴れているに過ぎず、不正や暴力行為はただの一度も行っていない。


 むしろ、それほどの巨悪を倒せるものでなければ天下の中央地区には敵わない。彼を凌駕するべき者でなければ県や全国、プロの世界で通用するはずもない。


 青峰龍牙を倒す者こそ、真の逸材である。北地区の運営はそう判断していた。


 そして、そんな大会を終えた龍牙は、何かを企むでもなく、下卑た笑みを浮かべるでもなく、ただ一人呆然と空を見上げていた。


 その眼に映るのは何か、空から龍牙の真意が反射されることはない。


 ビチャン。──何者かが、龍牙の隣に座った。


「……やけにつまらない顔をしておるのう」


 そこに座ったのは、老人だった。


 それもただの老人ではない。天王寺家の名を全国に轟かせた男、天王寺玄水げんすい


 玄水は龍牙の顔を見ることもなく、ただ同じ視線の先に映る空を眺めていた。


「何の用だ、玄水」


 龍牙は舌打ちを挟みながら玄水の方を向く。


 第一世代。鬼神の如き指し回しで時代を築き上げた集団の一派。今や老人と成り果ててもその威厳が保たれるのは、ひとえに根底的な思慮深さが周りを上回っているからだろう。


 龍牙は決して侮らない。煽るような口ぶりと冷静な思考は、その対比に気付けない者達をあっという間に突き落とす。


 そんな龍牙が本心を見せるのは、自身を上回る思考を持った者だけである。


「獲物を横取りされて不満か?」

「あ?」

「顔にそう書いておる」


 玄水に核心を突かれ、龍牙はため息を零しながら視線を外す。


「何故やる気にならん?」

「……俺が辞退すると思ってんのか」

「そうだ」

「……」


 二度目の核心。龍牙は火もつけずに持っていた煙草を懐にしまうと、玄水が握っていた杖を足で蹴り飛ばした。


 しかし、玄水は龍牙がそういった行動に出ることを予期していたのか、杖に体重は掛けておらず、蹴り飛ばされた杖だけが転がっていった。


 そして龍牙もまた、玄水が怪我を負わないことを知っていたのか、驚かずに玄水を睨む。


「お主を破門にしてから幾ばくの時が過ぎたか。の頃の面影、今や懐かしさすら感じる」

「俺をいしずえにする気か」

「それでお主の歩むべき道の霧が晴れる」

「……渡辺真才の策だな?」


 そこで初めて核心を突き返した龍牙に、玄水は少しばかり驚いた顔を浮かべる。


 しかし、動じてはいなかった。


「三原にも言われておろう? お主は出るべきじゃ」

「人を傀儡にすり替えておきながら言うセリフか」

「ワシに意図はないぞ?」

「オメェと話してねぇよ、クソジジイ」


 無茶苦茶に言い返す龍牙は、心底嫌な表情で苛立ちを見せる。


 龍牙の信条は我の貫きである。己の進む道を善悪問わずに突き進む、そこから得られる価値に火をつけ、燃やす。その煌びやかな輝きを見ることに人生を投じていた。


 最たるは、その輝きの元となったのが将棋である。


 そんな龍牙が最も恐れる相手とは、自分と同じ歩み方をしながらも、自分を完全に上回る存在。我の貫きを極めた者、覇道を進む者である。


 龍牙は来週に行われる黄龍戦の個人戦を辞退しようとしていた。


 理由は、戦う相手がいなくなったからである。


 元々龍牙は中央地区だけを絞って相手にしており、その親玉である青薔薇赤利を潰すことを目的としていた。


 しかし、その青薔薇赤利は真才によって先に倒され、将棋観を変えられた。


 将棋を通じて性根を叩かれ、自らの足でしっかりと立ち直った今の赤利に龍牙は興味を示さない。潰すべき標的とはなりえない。


 龍牙のポリシーは、悪を巨悪で潰すことにある。


 凱旋道場が西ヶ崎との一戦を経て変わろうとしていることは、龍牙の目にも明らかだった。


 標的となるべき人物はもういない。それでも、自身の所属する上北かみきた道場を上にのし上げるために、目下障害となる銀譱委員会を真っ向から叩く計画を練っていた。


 しかし、それも真才によって既に手が掛けられている。しかもその基盤を崩すのは、それまで銀譱委員会に仕えていた遊馬環多流という猛毒。そしてそれを仕込むまでたった2日という迅速さ。


 策士というにはあまりにも度を越えており、理不尽というにはあまりにも言葉が軽い。


 嫌になった龍牙は黄龍戦の辞退を考えていた。潰すべき相手すら見つからず、悪は覇者によって首ごと刈り取られている。自分の出る幕じゃない。


 そんな風に思っていた矢先の出来事が、これである。


 使えるものは何だって使う、全ては俺の駒だ。そう言っていた環多流の言葉が霞んで見えるほど、真才の行動は戦慄するほどのものだった。


 あの男は、渡辺真才は、外道を歩む自分すらも手にかけるつもりだ。


「……欲は身を滅ぼす」

「滅んだ中から生まれ出た行為じゃよ、きっとな」

「……」


 これまでの真才は火の粉を払う程度の対応しかしてこなかった。だからこそ、龍牙もそれほど脅威には思っていなかった。


 だが、今の真才はまるで違う。それまであやふやだった行動に明確な一貫性が出てきている。何かを目指す野心が、強い心が備わっている。


 誰かが彼のトリガーを引いたのだろう。大人しくさせておけばどこかで躓いて転んでくれたものを、誰かが余計なことをして覚醒させてしまった。


 そう、こうやって玄水を、第一世代の鬼神と呼ばれた存在を、わざわざ南地区から遠出させ、付き人すら付けずに自分と接触させている。


 一体何が、この老人を突き動かしたのか。そして、それをさせるほどの真才は一体何者なのか。


 ただひとつ分かることを、龍牙は小さく呟いた。


「クソが。だから俺は賢人アイツが嫌いなんだよ。死んでからも痕跡残しやがって」


 龍牙は弱音を吐き捨てるように吐露すると、玄水の胸ぐらをつかんだ。


「渡辺真才に伝えておけ。──お前の思惑通り東城美香をぶっ潰してやるってな」

「賢明じゃな」


 こうして、来週に行われる黄龍戦の個人戦、龍牙と東城のぶつかり合いは決定したのだった。



 ※



『──オールラウンダー。完全無欠の戦術だ。東城君、君はその領域に手が触れている』


 先日、鈴木会長にそう言われた東城は、たった今小さな一軒家を訪ねていた。


「ここであってるの……?」


 ピンポーン。とチャイムを鳴らし、家の外壁を見渡しながら家主が来るのを待つ。


 見るからにボロい家、しかし中は掃除が行き届いてそうにみえる謎の清楚感。


 こんな所に東城が来たのには理由があった。


 先日、鈴木会長によって各々の性質が明らかになった際に、東城は他とは違う部類の性質を持っていることを判断された。


 そう、オールラウンダー。全ての戦法を指しこなす天才にしか許されない芸当である。


 自分にはオールラウンダーの素質がある、そう鈴木会長から伝えられた東城は、今週末に行われる黄龍戦の個人戦へ向けて、他の部員たちとは別れて特訓をすることになった。


 そして、そんな東城が特訓のために訪れたのがこの一軒家である。


 チャイムが鳴ってから数十秒。ドタバタと足音が聞こえ、その足音が思ったより軽いことから、東城は自分より小柄な人間が出てくることを察する。


 しかし、その小柄な者こそ今の東城に必要な人材だった。


 ガチャ、と扉が開かれ、二人の目は合う。


「──あら、初めましてかしら」

「……そうね」


 小柄な体に宿った怪物は、見ただけで東城の額に冷や汗を浮かばせるほどの人物である。


 既に自分より下にいるはずなのに、なぜか遠く見上げなければ顔すら見れない気がして不安になる、そんな存在。


 あの天竜一輝の師弟にして、かつては西地区のトップに座っていた少女。


 ──舞蝶まいち麗奈れいな。アマチュア界屈指のオールラウンダーである。


「わざわざご足労様ね。お茶、出すわよ?」

「いいえ、本題に入っていいわ。……今のアタシに足りないものは何?」

「──まずは、余裕ね」


 二人は実質初対面でありながら、バチバチに火花を散らして視線を交わしていた。










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 真才を目覚めさせた宗像の罪は重い。

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