第百三十四話 格上

「バカな……」


 木下の想定が崩壊した。


 否、最悪の想定に上書きされただけである。


 それは純粋な思考速度、単純な読み負け。若さという暴力による圧倒的な読みの深さに、木下の余裕は消えてなくなる。


 ──しかも、それだけではない。


「えぇ……!?」

「なんで今受けたんだ……?」

「攻めた方が勝ちだったよな……?」


 好調な攻めを見せていた来崎が一転して守りの手を指すと、観衆は怪訝な表情で疑問を浮かべる。


 しかし、木下だけは苦渋に顔を歪ませていた。


(こちらの手をすべて読み切っておる……!)


 将棋では劣勢の局面から脱却するために、わざと局面を混戦模様にして優劣を無くそうとする手がある。


 そのような手を『あやをつける』といい、将棋歴が長い者ほどあやのつけ方が上手く、逆転して勝つことが多い。


 そして、将棋歴30年にも及ぶ木下は、劣勢になってからのあやのつけ方がずば抜けて上手かった。


 ──だが、そのすべてが見切られる。


 さきほど、木下はさりげなく混戦になる手を仕込んでいた。


 来崎がそれを無視して攻めていれば、木下の王様はギリギリのところで詰まず、かといって来崎の王様が捕まることもない。お互いにとって指しづらい混戦の将棋へと変わっていたはずだった。


 これまで攻め一辺倒だった来崎がいきなり守るとは考えにくい。そういった対局者の流れも加味して、木下はあやをつける手を放ったのだ。


 しかし、来崎は突然として攻めを中断し、木下の仕込んでいた手を完全に消し去るために受け方に回った。


 経験では勝っているはずの木下の思惑を、来崎は余すことなくすべて看破していたのだ。


 まぎれがない。形勢の優劣がハッキリと映し出され、来崎の玉形は一片たりとも傷がつかない。


(──いったい"何段"なんだ、この小娘……!?)


 時間という単位で測るのであれば、来崎と木下では将棋歴に天と地ほどの差がある。


 しかし、"経験"という側面から見るのであれば、その差は一転する。


 むしろ、来崎の方が上回るまであった。


「……っ!」


 毎日『異常』とも呼べるほどの対局数を重ね、学業も、趣味すらも切り捨てて得た実戦の経験値。


 そんな来崎の対局数は、木下の生涯対局数を軽く超える。


(──いったい"何段"なんだ、この小娘……!?)


 木下は自身の思いつく限りの策を講じようとするも、まるで心を見透かされているかのようにすべて対応される。


 やがて木下の駒台から駒の数が少しずつ減っていき、それに比例するように来崎の持ち駒が増えていく。


 途中から来崎は攻めるのをやめ、木下の攻撃を真っ向から受け止める態勢に入った。


 ──完封試合である。


「嘘だろ……?」

「あの木下さんが、何もさせてもらえない……」


 駒台からボロボロと崩れ落ちる駒達を見て、観戦者はドン引きした眼差しを来崎に向ける。


 それから数分も経たないうちに木下は攻撃手段を失い、自身の王様が捕まっていない状態なのにもかかわらず、その手を駒台の上にかざした。


「……ま、負けました」

「ありがとうございました。──失礼しますっ」


 来崎は木下に一礼すると、素早く席を立ってくるりと踵を返す。


 そして観戦者の集団を掻き分けると、真才に視線を送る。


「どした?」

「トイレっ!」


 来崎は真才に一言そう告げると、駆け足でトイレのある方へと向かっていった。


「感想戦もできないくらい我慢してたのか……」


 そうして去っていく来崎を見ながら、雰囲気に吞まれていた観戦者達は一斉に深い溜息を吐く。


「何者なんだ、ありゃあ」

「分からん……それより木下さん、大丈夫か?」

「あ、ああ……」


 木下は局面を戻して、生死を分けることになった中盤の入口、棒銀を決めたところの局面をじっと見つめて考え込む。


「ちょっと攻めるのが早かったんじゃねぇか? もっとじっくり囲ってからでも……」

「いや、そういう問題が通用するような相手じゃ……そういう勝負じゃなかった」

「……?」


 木下は自らが戦った相手が、遥か雲の上にいる存在だということを理解した。


 そして、未だその現実を受け入れていない者達へ目を向けると、局面を崩してその場を立つ。


「完敗だ。ワシではあの嬢ちゃんには勝てん。──次はおまえさんだろ? がんばれよ」


 そう言って来崎の次の対戦者に当たる者の肩を叩いた。


「え? いや、頑張れって……木下さん、何かアドバイスとかは……」

「んなもんはぇ。なんて言ったって惜しい勝負じゃなかったからな。完敗だよ、完敗。ハッハッハッ!」

「嘘でしょ……」


 愕然としながらその場に取り残された男は、ただただ訪れる災厄に身を任せるほかなかった。


 そして、再び観戦者の集団を掻き分けるように戻ってきた来崎は、その男の席に着く。


「すみません、お待たせしました」


 来崎は手を拭いていたハンカチを畳んでポケットにしまい、前屈みになって奥の方に置いてあった対局時計を手に取ると、慣れた手つきで元の時間設定に戻す。


「……」


 その僅かな行為で、来崎が大会に何度も出ている選手であることが分かる。


 対局時計、チェスクロックの設定は普通の一般人には行えない。なぜなら身近に置いてないからである。


 それを慣れた手つきで設定できる者がいるとすれば、それは対局時計を何度も使う大会に出ている者ということ。


 しかも、そんな来崎を自分達は知らない。初めて大会に参加する初心者だと誤認するほどには新顔だ。


 ということは、彼女は一般戦やBクラスといったシニア組に馴染みのある大会ではなく、Aクラスや代表戦といったアマチュア棋戦を軸とする最高クラスに出場している可能性が高い。


(そういえば、先日の黄龍戦って西地区が優勝したんだっけ……)


 男はそんなことを思い出すと、嫌な予感が沸々と湧き上がるのを実感する。


(まさか、そのメンバーの中に……この嬢ちゃんがいるってことじゃ……)


 それが事実であれば、彼女は面と向かって戦う機会すらないほどの圧倒的な格上だということである。


「……」


 途端に目の前の少女の姿が大きく見える。


 そして、これから自分が目の前の少女に蹂躙されることを悟った男は、表情を引きつらせながら来崎に話しかけた。


「いやぁ、嬢ちゃ……えーと、来崎? ちゃん。おじちゃんそんな強いわけじゃないからさ……手加減してよ?」

「……え? しませんけど」

「はは……」


 男は当然とばかりに、無慈悲な言葉を返された。










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