第八十二話 天理に触れる者同士

 人には何かしらの取り柄があると言われている。


 でも、そんなものが発覚するのは世の中にある全ての物事を試せる者だけで、人生という短い寿命の中では自分が何に秀でているかなんて分かりっこない。


 対して、ひとつの物事を極めればそれが取り柄になるという者もいる。誰よりも努力すれば、努力しなかった者達よりはその分野において秀でた才能を得られるということだ。


 それは希望と呼ぶにははかなすぎて、絶望と呼ぶにはありきたりすぎたのかもしれない。


 将来の夢はスポーツ選手か、それとも警察官や消防士だろうか。


 しかし、純粋だった少年が放った一言は──『将棋のプロ棋士』という荷が重い言葉だった。


 夢は叶う。叶うまで努力し続ければ、いつかは叶う。


 ──そんな"いつか"はもう来ないのだと、その言葉の重さを理解していなかった少年は悟った。


 少年の才に"将棋"という取り柄が無かったと気づかされたのは、雲一つない晴天の日だった。


 首筋に汗が滲むほどの太陽が輝く午前十時。病院のベッドで横たわる父の傍で、少年は自分の夢が砕かれた報告を告げる。


 "約束"は守れなかった。守ろうと努力していたはずなのに、守れなかった。


 きっと、努力不足だったのだろう。


 これだけ必死に頑張って導き出された結論は、そんな残酷な一言でしかない。


「……泣くな、真才。また次があるじゃないか」


 父から返されたその言葉に、少年は頷くことができなかった。


 ※


 南地区との戦いが終わった。


 結果は6勝1敗。来崎以外は全員勝利して対局を終えたようだ。非常に上出来である。


「おつかれさまっ、真才くん!」


 そう言って背中をポンと叩いてくる東城。


「お疲れさま、東城さん。どう? 苦戦した?」

「さすがにここまで来るとね。でも疲労はそんなに溜まってないから、決勝では問題なく全力が出せるわ」

「ならよかった」


 俺はほっとして胸を撫で下ろす。


 正直なところ、南地区との戦いは鬼門だった。何故なら、勝ったとしても次に中央地区との戦いが待っているから。


 こっちは2日かけて全力を出している状態なのに、相手はまだ一戦も戦っていない状態。俺達と違って疲労もなく万全な状態だろう。


 中央地区、もとい凱旋道場は前年度優勝地区の特権でシード枠を確保している。そして連覇が破れるまでその特権は継続らしい。


 なんともズルい特権だが、その点こちらもメリットが皆無というわけじゃない。


 中央地区はこの2日間で一回も本番を迎えていない。それはつまり、頭が冴えていない状態なわけだ。


 将棋に限らず真剣な勝負事というのは、ある程度適度な緊張状態と興奮状態を維持していた方が継続して力を発揮しやすい。彼らと俺達とでは戦いを経てきたという明確な違いがあり、ドーパミンの差は歴然だ。


 それが勝負の命運を左右するほどかと言われるとそうじゃないが、少なくともこちらが足元をすくわれるようなことはないだろう。


「ところで、他のみんなは?」


 天王寺魁人との対局を終えてから、周りに東城以外の仲間の影が見えなかったので、俺はふとそのことを尋ねた。


「散り散りになったわ。真才くんの対局が終わるまで待ってあげればいいのに」

「まぁ決勝を控えているからね。余計な体力は使わずにみんな一人でいたいんだと思うよ。それに、信頼があれば心配はいらない」

「そうね」


 ──なんてカッコいいことを言ったはいいものの、奥の方では旅館の方が提供する間食をモグモグ食べながらはっちゃける葵がいた。


 彼女に関してはなんて言うか、うん。自由にさせておくのが一番だと思う。


「来崎は外に?」

「ええ、今は一人にさせておいた方がいいと思うけど……」

「かもね。でも行ってくる」

「……そう。ならアタシは旅館の方で待ってるわ。昼食休憩は13時までだから、早めに終わるのよ」

「うん、分かった」


 そう言って俺は東城と別れて会場から外に出る。


 旅館への行き来で観戦者や観光客が出入りする場所とは違い、駐車場から少し離れたベンチのある休憩場所にて来崎の姿を見つけた。


 空を見つめるでも目を閉じるでもなく、ただ虚空を見つめながら何かを考えていそうな来崎。そんな彼女に最初はどんな声を掛けようかと思っていたが、俺は変に取り繕うことなく自然体でいることにした。


「……」


 虚空を見つめる来崎の隣に無言で立った俺は、壁に寄りかかるようにして持っていたお茶を軽く飲む。


 一言も喋らず沈黙する静寂の空間。聞こえてくるのは会場の雑音と自動ドアの開閉音、車の移動する音だけだ。


 それから来崎が口を開いたのは、数分も後のことだった。


「……既視感ですね」

「そうだね」


 いつしか見たことのある光景。地区大会でもこんな瞬間があったことを今さらながら思い出す。


「……私がどうして投了したのか、気になりますか?」

「いいや、そこは気にならない。──打開の選択権がなければ、きっと俺もそうしていただろうから」


 俺のその言葉に、来崎は目を見開いて驚愕した。


「……どうして分かったんですか? 私の対局は見てないですよね?」

「ただの予測だよ。今の来崎が投了する理由はそれくらいしかない」

「……衝撃です。真才先輩の凄さにはいつも驚かされますね」


 そう言いながらどこか嬉しそうに微笑む来崎。


 彼女がさきほどの試合で投了した理由は比較的単純だった。……とはいっても、俺はその内容を全く知らないんだがな。


「そうです。私はあの瞬間、自分に打開の選択権がないことを悟りました。──千日手せんにちて。局面は一見優勢に見える状態だったのですが、その数手後、偶然相手に千日手の手順が紛れていたんです」


 千日手──それは互いに同じ手を繰り返してしまう引き分けの筋。以前葵との戦いでも千日手を使って引き分けにしたことがあったが、千日手は実戦でもよくあらわれる。


「相手が打開すればこちらが優勢のままなのですが、それを分かっていて打開することはないでしょう。逆にこちらが千日手を打開しようとすると劣勢どころか敗勢になります。非常に細い攻めでしたから」


 それは来崎にとって手痛いミスだったんだろう。


 県大会クラスともなれば、実力の差は紙一重になりやすい。そんな相手との戦いで千日手の手順が紛れていれば、優勢でもない限り相手がその手順を選ぶのは目に見えている。


 となれば、千日手を回避することができない。


「相手が打開しなければ千日手。つまり引き分けで指し直しです。……決勝を控えている私にもう一局を楽しめる余裕はありませんでした」

「だから投了したと」

「はい。……東城先輩たちが勝って決勝進出が決まった時点で、投了は視野に入れていました」


 非常に合理的な判断だ。既に決勝進出が決まっているのだから、それ以上無理に戦う必要はない。


 もちろん相手への礼儀や礼節を考えれば話は変わってくるのだが、千日手という厄介な筋が見えている以上、投了するには十分な理由だ。


 だからきっと、来崎はそれを理性ではなく本能で理解したんだろう。


 俺はその一連の流れを否定する気はない。だが、ひとつだけどうしても気になる部分があった。


 ──もっと先を考えろ、渡辺真才。


「……まぁ、さっきも言ったように、俺は来崎の投了に関しては特に気しちゃいないよ」


 俺は優しく微笑んでそう返す。


「ただ来崎には俺からひとつだけ頼みがあってね、それを伝えに来たんだ」

「頼み、ですか……?」

「うん。と言ってもやってもらうのは大会が終わった後だけどね。それに今言うと大会に支障をきたすから、本当は言うのも後からにしようかと思ってたんだけど……どうやら今の方が良さそうだ」


 俺の言葉に、来崎は頼られたのが嬉しいのか期待を込めた目を向けてくる。


「いいですよ、私にできることならなんでも──」


 そう告げようとしていた来崎の言葉が、途中で途絶える。


 それは来崎が俺の表情を見た瞬間からだった。


「来崎」


 寄りかかっていた壁から離れて来崎の前に立った俺は、その表情を向けてこう言った。


「──俺と本気の勝負をしてほしい」





 ──────────────────────

 ※本勝負は決勝後に行われます。お楽しみに。

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