第四十五話 一流の手法2

「……負けたんだ、私」


 誰もいなくなった部室でただ一人残された私は、気の抜けた風船のように体を崩して地面に座り込んだ。


「……自滅帝、自滅帝か……。あはは……バカだなぁ、私……」


 今振り返れば全てに合点がいく。


 孤高の一匹狼として我が道を貫いていた東城美香の心境の変化。彼女が渡辺真才を大将へ推薦したこともそうだったけど、彼の大会での戦績に何一つ驚いていないのが一番の疑問点だった。


 まるで勝って当たり前のような反応。ある程度の実力があると見抜いていた私ですら、渡辺真才の全勝は想定外だった。


 きっと、分かっていたのだろう。彼が、渡辺真才が自滅帝本人であるということに。


 あの誰も寄せ付けない空気感を出している来崎夏ですら、彼にはべったりとくっついていた。


 大会当日に出会ったばかりのはずなのに、まるで旧友の仲みたいに話している姿にはあまり納得がいってなかった。


 だって彼はどう見ても内気な性格をしている。俗にいう陰キャだ。来崎夏を落とせるほどのコミュニケーション能力があるとは到底思えない。


 だけど、彼の正体が自滅帝であるなら話は別だ。それならあの反応も納得できる。


 結局のところ、私は渡辺真才の本質を見抜いているつもりで何一つ見抜けていなかった。理解できていなかったのだ。


 だから、こんな結果を招いてしまった。触れてはいけない逆鱗に触れてしまった。


 もう、今の自分には何も残っちゃいない。彼に全てを咎められ、再起できない正論を叩きつけられた。


「……帰ろう」


 私はフラフラと立ち上がり、彼に言われた通り鍵の確認だけして部室を後にした。


 廊下に出ると一瞬だけ東城美香の香りが鼻腔を擽り、ついさっきまで彼女がそこにいたことを暗に察してしまう。


 恐らく、私達のやり取りを聞いていたのだろう。


 八方塞がり、退路は断たれた。彼は私を許してくれたけど、彼女はきっと私を許さない。


 だって、私は二人を退部させようとしていたのだから。


「……最後までバカだったなぁ、私。……いや、あの人たちが凄かったのかな」


 そんな言葉をポツリ、ポツリと呟きながら廊下を歩く。


 全てが手のひらの上だった。全てが彼の術中だった。


 仮に私が奇跡を起こして渡辺真才に勝てたとしても、東城美香にやられるのがオチだったのだろう。


 もはや初めから勝機なんて無かった。勝つ道は残されていなかった。そう考えると自分がどれだけ愚かなことをしていたのかを自覚してしまう。


 きっと、こうなるのも必然だったのだろう。


「……」


 悪が滅びる良い世界。正しさがまかり通る美しい世界。そんな中で、私というイレギュラーは自ら招いた愚行と共に消えていくのが道理だ。


 ……明日、みんなに本当のことを告げて謝ろう。決して許してはもらえないかもしれないけど、それがせめてもの……自分の夢に対する責任の取り方だ。


 気付けば私は正門から出ていて、誰もいない道をたった一人静かに歩いていた。


 すると、正門を通り過ぎた少し先で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「おーい! 葵君ー!」

「……?」


 聞き馴染みのない声。いや、聞いたことのある声だ。


 遠目に止まっているピカピカの高級車、そこから降りてきて私を呼ぶ一人の老人。


「……す、鈴木会長……?」


 私に声を掛けたのは、先日の黄龍戦の主催者であり県の会長を務めている男、鈴木哲郎だった。


「いやーもう帰ったのかと思って心配したよ。すれ違いが起きたら朝まで待つところだったからね」

「……あの、私に何の用ですか?」

「ん? 聞いていないのかい?」


 何も知らない私に鈴木哲郎も驚くと、車の中から資料を取り出して私に見せた。


「実は葵君にひとつお願いしたいことがあってね。私の教室に通う子供たちに将棋を教えてほしいんだ」

「えっ……?」


 急な話に私は動揺する。


「ここ最近入門者がどんどん増えてきてね、私だけではとても手が足りない。そこで前々から指導者を募ってはいたんだけど、この辺りのアマチュア強豪は皆どこかしらの道場に入っていて簡単には引き抜けないんだ。だから葵君のようにどこの道場にも属していない子が欲しかったんだよ」


 鈴木哲郎が何を言っているのか、私には理解できなかった。


「葵君は確か、ご家族を亡くして一人暮らしだったよね? うちでよければ正規と同じ長期契約を結んで、生活に困らないだけの支援をさせてあげることもできるよ」


 渡された資料を見ると、そこには入門者の人数や平均段位、そして収支や収入などが詳細に書かれていた。


 それは、とても高校生が得られるような額じゃない。明らかに大人が、長年勤めた正社員が貰うような額だった。


「そんな、夢みたいなこと……」


 今まではバイトをするだけで手一杯だったし、そのせいで将棋の勉強もろくにできていなかった。


 だけど、これなら将棋をしながらでもお金が入る。毎日将棋の感覚を忘れないまま生活することができる。


 まさに夢みたいな話だ。


「なんで、私なんかに……?」

「君は黄龍戦を優勝に導いたチームのスターだよ? 天竜一輝を含む私たちのチームに勝利して優勝。しかも葵君は大会を全勝で終えている。この箔は他の道場の者達が喉から手が出るほど欲しがる逸材さ」


 そう言って鈴木哲郎は私の肩に手を添える。


「それに、私は君の強さをよく知っている。なんたって決勝での相手は私だったわけだしね」

「……あの時は、手加減したんじゃ……」

「……手加減? そんなことするわけないだろう。私には県の会長としてのプライドと道場の看板がかかっているのだよ? 手加減などして負けたのならいい笑いものだ。私は最初から全力で戦っていたし、その全力に君は勝ったんだ」


 鈴木哲郎の言葉に、私は絶句したような表情を浮かべる。


 だってこの人は、あの天王寺玄水と同じ第一世代の──鬼才の世代だ。そんな人に私が実力で勝てたなんて、信じられない。未だにその実感がない。


「まぁ、葵君も今日は学校で疲れてるだろう? この話はまた後日ゆっくりするとしよう」


 そう言って帰ろうとする鈴木哲郎に、私は言葉を漏らした。


「あの、こんな……こんな夢みたいな話を、もらってもいいんですか?」

「もちろんさ。まぁ、正規で契約を結ぶと大会の後片付けとかもやってもらうことになるけど、それでも本職は将棋だ。私の子供たちに夢を与えてやってほしい」

「……!」


『夢を与える罰を受けろ』


 一瞬脳裏を過ぎったその言葉に、私は俯いていた顔を上げる。


「まって、この話ってどこから……!」

「ん? やはり何も聞いていないのかい? この話は昨日、渡辺真才君から直々に頼まれたんだよ」


 それは、あまりにも衝撃的な一言だった。


「今、なんて……」

「だから、真才君から頼まれたんだよ。『自分には彼女を救う力も資格もないので、よければ手を差し伸べてあげてください』ってね。まぁ、私が君を勧誘することの何が救いになるのかは分からないけど、お金の面に関しては心配することはないよ」


 鈴木哲郎が言ったその言葉に、私は唖然としてしまう。


「そんな……そんなことって……」


 口元が震える。鈴木哲郎が伝えた言葉に、嗚咽が漏れそうになる。あれほど吐いて捨てるように思えた価値なき言葉は、どこまでも先を見据えた一手だった。


「……私を……こんな、私なんかを……っ」


 ようやく、全部理解した。彼が言ってた言葉の全てを、今になってようやく理解することができた。


「罰なんて、ウソばっかり……ウソばっかりだよ、先輩……っ」


 あれだけ酷いことをしたのに、あれだけ酷いことを言ったのに。その返しがこんな希望に満ちた一手だなんて聞いてない。


 私は、大罪を犯したのに。やっちゃいけないことをしたのに。


 それが、こんな……こんな優しいもので返されるなんて……。


「あ、葵君!? 何故泣いているんだい!? まさか、私が何か余計なことを言ってしまったのかね……!?」

「違うんです……っ、私、嬉しくて……うれしくて……っ……」


 溢れ出るこの涙を、私は止めることができなかった。


 何かが決壊したかのように涙が零れ、せき止められていた感情の波がすーっと流れていく。


「……こんな恩……もうどうやっても返せないよ……っ」


 心配そうな顔を浮かべる鈴木哲郎の胸で、私はずっと泣き続けた。


 将来への不安も、夢への歩みも、全部彼に解決された。


 後悔とか不安とか、今までの私はそういったものを全部背負って生きてきたはずなのに、どうしてだろう。今は何も感じない。


 どこまでも真っ白で、暖かくて、透き通ったこの気持ちがただただ心地いい。


 嫌な感情も、嫌な考えも、全部涙と共に流れていってる気がした。


「ありがとう……先輩……っ、ありがとう……っ」


 私は泣き止むまでその言葉を口にしていた。泣き止んでも心の中でずっと言い続けた。


 感謝をしてもしきれないほどの恩を受けてしまったからだ。


 大言壮語と罵った私を押しのけて、彼はその言葉を実現させた。もう戻れないと思っていた道へ、正しく背中を押してくれた。


 ──彼は、本当に私を救ったのである。


 まるでヒーローのように、誰かの憧憬になるかのように、彼はそれが当然とばかりに私を救って見せたのだ。


 ──心の底から人を慕ったのは、生まれて初めてだった。


 私は枯れた涙腺を赤く腫らしながら、鈴木哲郎の道場に通う子供たちに毎週将棋を教える夢を与えることを約束した。


 そしてこれ以降、私の頭の中から鈴の音が聞こえることは無くなったのだった。



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