第二十七話 来崎の様子がおかしい

 来崎の様子がおかしい。


 銀不成支部との対決が始まって30分。いよいよ終盤に入ろうとしていたタイミングで、俺はふとある違和感に気づいた。


「はぁ、クッソ、なんでだ……っ!?」


 目の前で俺の手に悶絶する対戦相手をスルーして、俺は他の仲間の調子を確認するために左側を一瞥する。


 俺とは逆サイドにいる東城や隼人、葵の顔までは見えないもの、来崎まではなんとなくこの位置からでも窺える。


 魁人と武林先輩は終盤に入っていることもあって深く考え込んでいる様子だが、その表情の深淵を覗けばある程度優勢を確信している目付きなのが分かった。


 しかし、来崎だけどこか様子がおかしい。


「……っ」


 頬から冷や汗を垂れながして、まるで熱でも出たかのように朦朧としたまま視線を盤上に向けている。


 おかしい、というのは形勢の良し悪しではない。調子、あるいは精神状態、様子そのものがおかしいように思える。


 しかもそれは、風邪や発熱といった病気の類ではない。何かに阻まれているような、防がれているような、そんな精神的状態から無理に指している気がする。


(……あれはまさか……いや、だとしたら嬉しい誤算だな)


 俺はその状態に覚えがあった。それに、来崎……いや、ライカにはその兆候が前々から感じられていた。


 しかし、これは一種の毒のようなもの。放置しておけば悪化する問題だ。ある程度予想していた展開のうちのひとつではあるが、こうも如実に表面へと出てくると対処せざるを得なくなるな。


 このままでは優勝出来なくなり、俺の"約束"が果たされない。


 いや、まずは自分の対局に集中するか。


「くそっ……! くそっ……!」


 俺の手に動揺と焦燥を浮かべている銀不成支部の大将は、頭を抱えながら手に悩んでいた。


 そして、対局から視線を逸らした俺を見たのか、向こうの大将は俺を疑惑の目で睨みつけた。


「お、おい……! 不正してるんじゃないだろうな……!」


 疑いの眼差しは自身の敗走を認められぬがゆえか。対局を始めたころとはうってかわって感情的な敵意を向けている。


「不正? この状況でどうやって不正をする? 俺は離席すらしてないが」

「み、耳にイヤホンつけたり、誰かからアイコンタクトか何かで最善手を教えてもらったりしているかもしれないだろ……!」


 そう言って目の前の男は辺りをキョロキョロと見回し、それらしいのがないかを確認する。


「はぁ……恥を晒すぞ」

「だ、黙れ! 今まで大会にも出てこなかった奴が、なんでこの僕とこんなに差がつくんだよ! ありえないだろ……! 絶対にありえない……! 指し手も早すぎるし、怪しすぎるだろお前……!」

「ずいぶんと業腹な思考だな」


 苛烈な物言いに俺は腕を組んで思考を休める。


 精神が弱い者ほど追い詰められた際に他責しやすい傾向になる。コイツはまだ中学生で、そういう現実と直面する機会が少なく、俺の不正を疑っているのだろう。


 だが舐めるなよ、少年。ここは学校でもなければクラス分けされた大会でもない。正真正銘の一般戦だ。


 相手が中学生や小学生だからと贔屓にされることはない、手加減されることはない。


 将棋は自らの知恵と知略で相手を倒すゲームだ。だから子供が大人に勝つこともあるし、子供がこうして大将に選ばれることも少なくはない。むしろ頭の回転が早い若い者の方が強いとすらされている。


 だから俺はどんな相手だろうと手を抜くつもりはないし、全力で戦うと決めた。


 形勢に差が出ているのなら、それは俺とお前の棋力に大きな差があることに他ならないわけだ。


 不正など、使うまでもない。


「そんなに不正を疑っているなら審判にでも報告すればいい」

「くっ……!」


 相手から権利を明け渡される行為ほど効果のある正論はない。


 男は俺の言葉に押し黙り、唇を噛み締めながら次の一手を考える。


 そして、こんな状態になるに至ったのは単純な始まりからだった。


 対局開始後、飛車先の歩を突かずに守りを優先して整える俺に対し、銀不成支部の大将は『角交換四間飛車かくこうかんしけんびしゃ』、略して『KKSケーケーエス』と呼ばれる戦法を使用した。


 この戦法は平成後半にアマチュアの間で爆発的に流行ったことで有名なものだ。


 利点は様々、カウンターを目的とした振り飛車でありながら攻撃にも特化した変則型へ組めること。角交換を強要しつつ隙の無い陣形で戦えること。その角交換を拒否したら常に捌ける格好で駒組みを行えること。


 昭和の理想が石田流の三間飛車であるのなら、平成の理想は角交換型の四間飛車だ。


 銀不成支部の大将はその角交換四間飛車を繰り出し、意気揚々と角交換を行った後、かい飛車びしゃと呼ばれる戦法へと形を変え、そのまま棒銀ぼうぎんという銀を前へ前へと繰り出す単純な攻めを実行してきた。


 これは本に書いてある通りの理想的な攻め筋だ。


 振り飛車側は駒が捌ければそれだけ優勢になる。どんどん駒を交換していくのは向こうに主導権を握らせる展開になるだろう。


 だから俺は、自分が居飛車にも関わらず飛車を振って振り飛車にした。


 居飛車だから飛車を振らない。なんてルールは存在しない。俺は飛車先を保留した状態で戦っていたわけだから、まだ居飛車と確定していなかったわけだ。


 パンドラの箱に眠った猫は果たして毒ガスを喰らったか? それを開けずに自己中心的な攻めを実行するなど愚か極まりない。


 ──『陽動ようどう振り飛車』。一種のハメ手だ。俺は居飛車で戦うと見せかけて、振り飛車を指した。


 向こうの利点は駒の捌きをプラスに変える振り飛車だ。ならばこちらも振り飛車にすれば利点が相殺されてプラマイゼロになる。


 すると、攻めるために何手も手数をかけた相手だけが一方的に手損てぞんをしたことになり、こちらはその分何手も得をした形になるわけだ。


 あとはその逆転した速度を活かし、相手より速く攻めてしまえば終わりだ。


 ほら、実に簡単な勝負だろう?


「あぁ、くそっ……! なんで、なんでだよぉ……!」


 対局開始から40分。その間に銀不成支部の大将は絶望の表情に染まっていた。


 指せば指すほど悪くなっていく形勢、終わりへと向かう局面。隙を突いて繰り出したカウンターも俺の張った罠に吸い込まれて消えていく。


 どうしようもない状態に追い込まれた銀不成支部の大将は、やがて悔し涙を流し始める。


 だが、俺はそれを冷めた表情で見ながら、容赦なく相手を追い詰めていった。


「……っ、ま、まけました……」


 誰にも聞こえないくらいの声量で呟いた男に対し、俺は頭を下げて挨拶を返す。


「ありがとうございました」


 こうして無事、俺は2回戦目も勝つことができたのだった。


 ※


 格下の相手。駒落ちでも勝てるくらいの棋力差。相手の指してくる次の一手が簡単に分かってしまうくらいの力量差をひしひしと感じる。


 ──そんな相手を前に、中堅である来崎の手は止まっていた。


「……っ」


 駒を掴もうと伸ばした手を、逆の手で掴んで抑え込む。


 まだ指す手が決まっていないのに、手が勝手に動いていた。そのことに来崎は不気味な感覚を覚える。


(……何、これ……怖い……)


 無意識に引きずり込まれるような、自分自身を制御できない感覚。


 トラウマ? ストレス? イップス?


 様々な憶測が頭の中に浮かんでくるが、そのどれにも合致しない。


 不調だとは思わない。疲労も感じない。なのに満足した一手がどうしても指せず停滞している。


(読み違え……? 見落とし……? どうして思考がまとまらないの……っ)


 来崎は1回戦で負けた際に、わずかな違和感を覚えていた。


 手が思うように指せない。先読みが上手くできない。体に異常はないのに、見えない何かに抑えつけられてるような重さを感じる。


 勝てない相手に負けるのは仕方がない。しかし、1回戦の相手は普段の来崎より遥かに弱かった。なのに負けてしまった。


 2回戦の相手はさらに弱い、圧倒的な格下。


 それでありながら、来崎は再び負け寸前まで追い込まれていた。


(……っ。どうなってるの、私っ……)


 詰みが見え隠れする終盤の攻防。本来の来崎であればすぐに見切って指せているはずの局面。


 そんな局面で来崎は20分という大長考を行ってしまい、貴重な残り時間をドブに捨ててしまっていた。


 指す手は既に決まっている。それ以外無いと思っている。これを指せば勝ちに繋がる。


 だから、指せ──。


 感覚から来る本能がそう訴え続け、来崎の思考にノイズを被せて邪魔をしてくる。


(うるさい、黙って……!!)


 感覚で指す将棋などあり得ない。それは傲慢すぎる選択だ。


 冷静に考え、しっかりと手を読み解き、理に適った一手を指す。それが最善への近道になる。


 来崎は真剣にもう一度最初から手を考え直した。


 そしていくつかの候補手を絞っていき、その状況で最も良いとされる一手を理論的に導き出す。


 すると、先程の本能的な一手が雰囲気だけの間違った一手だということに気づいた。


(……ほら、やっぱり間違ってる)


 考えれば考えるほど先程の手は悪手に見えてきて、自分の脳が勝手にその悪手を指そうと思っていたことに恐怖を覚える。


 来崎はあくまでも冷静沈着な自分の一手に固執していた。


(この邪魔な"ノイズ"さえなければ、私はもっと読みを深められるのに──)


 しかし次の瞬間、相手の指し返した一手に来崎は驚愕する。


「えっ……?」


 駒台から放たれる歩の手裏剣。その何気ない一手は来崎の読みに入っていない一手であり、──頓死とんしの一手だった。


(え……? なんで……? あれ……?)


 頓死、それは死の宣告。敗北の烙印である。


 来崎は自らが勝っていると思っていた局面で、たった一手の間違いを犯して逆転されてしまったのだ。


(……嘘……なんで、なんで……っ)


 分からない。負けた理由が分からない。


 たった一手の間違いで逆転され、負けてしまった。その過程は理解できる。


 しかし来崎は、どうして自分がそんな間違えた手を考え、指してしまったのか。それが理解できていなかった。


 しっかりと考えて指したはずなのに、理論的に考えていたはずなのに、小さな抜け穴は決して見逃してはくれなかった。


(……なんで。私、いつの間にこんなに弱く……)


 今にも壊れてしまいそうな来崎は、深く頭を下げて投了の合図をする。


「……」


 そんな来崎の異常にただ一人気づいていた真才は、ゆっくりと席を立ちあがった。

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