掌編エッセイ・『美醜の彼岸』

夢美瑠瑠


  フリードリヒ・ニーチェの著書に「善悪の彼岸」というのがあって、今ちょっと調べてみたら、これは、「ツアラトウストラはかく語りき」という前著の理論編であって…云々と説明があり、骨子は自らを"高貴な存在となすべき"ポジティヴな「力への意志」、「超人」を賞揚するニーチェ一流のユニークな思想的な立場の表明、そこからそれを敷衍して、当時の近代社会の大衆?を社会的適応のみに汲々とさせられている「家畜の群れ」と罵って、徹底的に批判糾弾したもの、とかかなり偏奇?でまさにニーチェの真骨頂とそういう趣の著書らしいです。


 ボクは、門外漢で生半可なのですが、哲学とはつまり「人間とは何か、人生はどうあるべきか、世界とは、時間とは?いったい全体"in the world"何であろうか?…」そういう根源的な疑問、問題について深く考える学問、そういう捉えをしています。


 誰でも生きている限り、長く生きていれば、それに相応して何らかの「人生哲学」を、たぶん把持していて、例えば「座右の銘」や、「座右の書」、宗教や支持する政党、そうした形でそれは現実にどうしても反映されざるを得ず、よしんばはっきりした形で理論化されていなくても、投影法テストのごとくにその人の生き方とか価値観とかで、「人生とはこういうもので、どう生きるのが賢明で、こういう風に生きてきて、それゆえにここはうまくいき、ここがちょっとダメで…」そういう青写真というか構図やイメージ、”人生”というタイトルのついたアバター?ゲシュタルト?…表現が難しいけどつまり結局フィロソフィーの雛形?それが構成されているはずだと思うのです。

 

 プーチン大統領は、学生時代に喧嘩でボコボコにされて、その苦い経験から極端な「力の信奉者」になったと言われる。らしい。逆にマハトマ・ガンジーは暴力を否定して、非抵抗主義を提唱した。断食したりして、戦争や流血を避けようとした。らしい。歴史上の有名人と言えば、ヒットラーもいれば、マザ-テレサもいるし、達磨大師もいれば、カザノヴァやドンファンもいる。日本の作家でも、例えば、埴谷雄高と邱永漢だと、まるっきり作風とか趣を異にしていて、恐らくエイリアン同士のように全く正反対の人生哲学を信奉していたのではないか? だから、People are freaks と、諺にあるが、万華鏡とか曼陀羅のように十人十色に人生観、哲学も多彩で多様だと思う。


 ニーチェさんは、素人の印象では、恐ろしいくらいに慧眼で切れ者の理論家、透徹した知性の持ち主、そこらへんの面目が躍如とした?人物であろうか。丸谷才一氏も「文学者は外国語を勉強してはいけない。母国語の感覚が鈍くなるから」というニーチェの箴言に、「いつもながらに恐ろしいくらいに鋭い意見」と、敬服していたりするですが、あまりに尖鋭的な頭脳ゆえに、世俗的な愚昧な群集心理みたいなもので形成される世論やら政治思想やらそういうものすべてを唾棄したいほどに軽侮していたのではないか?その嫌悪感ゆえに「超人」という孤高の道を選択し、キリスト教の道徳にはっきりNONを唱えて、独立不羈、というか、ヘミングウェイが「キリマンジャロの雪」と詩的に表現した境地に、うーん、だから基本的にやはり視点は当時の社会にフォーカスされていて、「善悪の彼岸」も、「神は死んだ」も、ベースのアンチ・キリスト教のスタンスゆえにスタティックな信心深さの逆の、生きたダイナミズムを?強調する思想に走ったのかと思う。


 価値観がだから、例えばゲーテとかだと自然や女性の美、恋愛の喜びとかのロマンチックな、軟派なフェイズが主調音で、およそニーチェのように硬質で一刀両断?といった舌鋒の鋭さとは無縁、そういう感じですよね?


 ゲーテはワイマール共和国の首相にまでなった偉大な文豪ですが、ゲーテがいう”善悪”と、ニーチェの言う”善悪”、だと、前者はなんだか薔薇色とか若草色で、後者は燻し銀みたいな?そういうtexture の相違がある。


 ゲーテなら、善悪より寧ろ「虚実の彼岸」とか「美醜の彼岸」を語るのではないか?今、なぜゲーテが「歴史上もっとも賢い人物」と言われるのか、その所以を知るべく、「親和力」と「詩と真実」を読みかけているのですが、宗教のリアリティが薄い日本人からしたら、キリスト教にこだわったニーチェよりも、より懐が深くて、情に篤いような、器の大きさ、暖かな人間味を、やはりゲーテには感じます。

 

 太宰治も、「そのころ私は”美”という唯一神を信奉しようとしていた」とか、「美と叡智は善、醜と愚は悪」とか書いていたりする。哲学者は普通「芸術家」とは呼ばれないし、まあ美醜という価値観とはニーチェとかは無縁だったかと思う。が、作家や詩人は紛れもなく artist の範疇にあるので、社会とは一線を画するか、あるいは耽美的で、ドラッグや女色に溺れたりするような、寧ろ”反社会”の文学者も多いかと思う。ただニーチェの思想でボクが個人的に面白いと思うのは、「世界は呪われている!」とか、ルサンチマン(怨恨)という文言の真意が、生半可なのですがなにか現代まで連綿とある「コンスピレイシー」関係の、そうした世界史上の秘密を言っているのではないか?彼が晩年に梅毒とかで廃人になったのもそういうことと何らかの関係が?、とこれは口が裂けても言ってはいかん?禁忌かもしれないが、チラッと付言したくなった…


 「いかに生きるか」のみならずに哲学には、たとえばルソーのように、社会を否定する、「自然に帰れ」と、現代のミニマリスト等の思想を連想する、過激な原理主義?的なものもある。某作家は、哲学の本を「最終的な書物」と書いていましたが、

膨大な読書の挙句に、結局、論語や孟子、老子、そういう書物のみを読み返すようになった、そういう読書家の述懐も目にしたことがあります。最終的な書物はつまり、始原の書物ともいえるかも…ニーチェの言う「永劫回帰」とはこういうとかもしれない…? 

 

 で、例えばボクのように、気弱で神経質なのに、醜男で虚弱ゆえに、普通に自分に誇りが持てずに、屈折して、さまざまに韜晦して、人生哲学が歪になってしまったケースもある。自分を何とか保って、生きていくためには現実を否定せざるを得なかった。かなり極端な作風のSFやら、人間否定の哲学、綺想に満ちた幻想文学、そういうもので論理武装して、「空気」に逆らい続けていなければ、思春期早々に精神的に破綻をきたしていただろう。


 常に疎外感に苦しめられてきて、普通に他人と交流というものができずに、真っ向から問題と対決できずに小手先の防衛機制みたいなものを行使せざるを得なくされてきて、そうして自分の特殊な条件にも没意識で?中途半端で歪な逃避をしているだけで、貴重な時間を空費してきた。なんだか気持ちの悪い?ケッタイな化け物が、外敵におびえて逃げまどっているような…ちょうど「エレファント・マン」という映画の主人公のような、そういう悲惨な人生だったのです。


 今でも基本的にそういう構図に変わりはないが、時代や社会にいろいろな変化が生じてきたことで、自分の偏奇な性分というか人格というか、が、多様性の時代とか言うことで、単なる個性の一つで、情報化社会では”オタクに腐女子が懸想する”ことがあったり、そんな事情で市民権を得て、世間に認知されてきた…そんな風な寿ことほぐべき趨勢の変化もあります。


 世の中も、自分自身の日常や周囲にも、無数の事物の変転、有為転変、目まぐるしい消長推移、が、ひっきりなしなのですが、そういう中に自分という無数のパラメターの結集した総体的存在、”ミクロコスモス”と、世界という無数のパラメターがやはり複雑無比に絡まり合って出来ている”マクロコスモス”その因果関係、現実の中の実在的現象?どうしたらその究極的な、整合的な合一、絶対矛盾的自己同一?いわゆる梵、AUM。そういう理想的な境地、平穏なユートピア。壺中天でも涅槃でもいいが、そういう悟りを得られるのだろう…?そんな日が来るのだろうか?


 日々迷い試行錯誤していて、混乱したり絶望したりばかりですが、例えば読んでいない無数の哲学書とかをどんどん読破して、マイルストーンみたいに、暗夜の灯みたいに恃んで、兎に角一歩一歩進んで、幻の「彼岸」、「西方浄土」を目指していこうと思います。 

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掌編エッセイ・『美醜の彼岸』 夢美瑠瑠 @joeyasushi

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