婚約破棄の場に相手がいなかった件について
三木谷 夜宵
第1話
それは、とある夜会で起きた。
「この場をもって宣言する。私、アダルベルト・フォーゲンベルクは婚約者であるクラウディア・オリエンフェルトとの婚約を破棄する!」
会場全体に響き渡るようになされた宣言に、招待客の視線は自然とフォーゲンベルク侯爵令息であるアダルベルトに向けられる。
自信満々な表情をしている彼の傍らには、婚約者であるオリエンフェルト伯爵令嬢であるクラウディアではなく、別の令嬢が寄り添っていた。新興貴族のリットナー男爵の娘カレナである。
「聞いているか、クラウディア! ……クラウディア?」
アダルベルトはきょろきょろと辺りを見渡す。しかし、クラウディアの姿はどこにもなかった。
相手がどこにいるのかも確認せずにあんなことを言ったのかと、招待客たちは呆れと嘲笑の面持ちを浮かべながらアダルベルトの間抜けな姿を見ていた。一方で、歴史ある名家オリエンフェルトの令嬢がこの場にいないのはどういうことかと首を傾げる者もいた。
「これは、どういうことでしょうか?」
アダルベルトの声を聞きつけたクラウディアの兄、ゲオルク・オリエンフェルト伯爵が群衆の中から姿を現わす。
「オリエンフェルト伯爵。貴殿の妹はどうした?」
アダルベルトが声を上げると、ゲオルクは氷のように冷たい表情を浮かべながら口を開く。
「来ていないに決まっているでしょう」
「どういうことだ?」
アダルベルトはきょとんとする。
「どうもこうも、婚約者である貴方が同伴していないのだからいるわけないでしょう」
「なっ……!」
そう言われて、アダルベルトは仰天した。
そんな当然のことにも気づかずに、他家が主催する夜会で騒ぎを起こすとは──とゲオルクは溜め息を吐いた。
「だったら、貴殿が同伴すればよいではないか!」
自分のことは棚に上げて、アダルベルトはゲオルクを責める。
「はじめのうちはそうしていましたが、私にも婚約者がいます。妹ばかりに構っているわけにはいきません」
冷静に反論され、ぐっとアダルベルトは押し黙る。
そもそも親の爵位に威を借る侯爵令息であるアダルベルトが、伯爵位を継承しているゲオルクに文句を言える立場ではないのだが、本人はまるで気づいていないようだった。
「それで? なぜ妹との婚約を破棄なさろうとしたのでしょうか。当人がいない以上、兄である私が話を伺いましょう」
少々予定は狂ったが、ゲオルクがそう言うのでアダルベルトは用意していた婚約破棄の理由を口にする。
「貴殿の妹、クラウディアはここにいるカレナに非道な行いをする悪女だ! そんな女を我がフォーゲンベルクの嫁として迎えるわけにはいかない。ゆえに婚約を破棄する!」
「アダルベルト様! 私、怖かったです! 平民上がりが調子に乗るなと──」
カレナは涙目になりながら、アダルベルトに縋りつく。可哀そうに、と彼は慰めるようにカレナの肩を抱く。一見、互いを支え合う麗しい恋人同士のようだが、婚約破棄を宣言したとはいえ、アダルベルトとクラウディアは書類上まだ婚約関係にある。にも関わらず、他の令嬢と親密にしている姿を堂々と他人様に見せつけている。常識ある貴族ならば、どちらに非があるかなど考えずとも判ることであった。
「なるほど。では、具体的にいつ、どこで、どのように非道なことを妹にされたのか教えていただけますか?」
顎に手を当てながらゲオルクが訊ねる。
「一年くらい前からでしょうか。夜会で顔を合わせるたびに、ここはあなたの来るところではない、男性に話しかけるなんてはしたない──と。髪を引っ張られたり、ドレスに飲み物をかけられたこともありました」
両手を握りしめて、肩を震わせながらカレナは証言する。
「他にも、お茶会に招待されなかったり、衣装店でドレスの注文を断られたり……きっと、クラウディア様が手を回したに違いありません!」
「どうだ、オリエンフェルト伯爵。やはり貴殿の妹がやっていることは、悪女そのものではないか!」
まるで鬼の首でも取ったかのようにアダルベルトは声を上げる。だが、ゲオルクは顔色を一切変えなかった。
「それはおかしいですね」
ゲオルクは首を傾げる。その仕草はどこか芝居がかっているようにも見えたが、アダルベルトとカレナは気づかない。
「何がおかしいというのだ?」
「妹は、クラウディアはここ一年、夜会には参加しておりませんが?」
「え……?」
アダルベルトとカレナは目を丸くし、口をぽかんとさせた。
「貴方が、婚約者である妹を同伴しなかったのは今夜に限ったことではありません。言ったでしょう。はじめのうちは私が妹の同伴をしていたと。
ですが妹は、私自身が婚約者を同伴できないことを気にして、自分のことはいいからと同伴を断るようになりました。以降は、貴方が迎えに来るのを屋敷で待っていましたが、待てど暮らせどフォーゲンベルク侯爵令息は姿を現わさなかった。だから、夜会には参加していない。それだけのことですよ」
ゲオルクは当然だと言わんばかりだった。しかし、アダルベルトは反論する。
「そ、そんなはずはない! 一年間、参加していないと言うが、その中には王宮主催の夜会もあった。王都にいる貴族は皆、参加していたはずだ!」
王宮主催の夜会は重要な式典や貴族全体の交流を目的にしており、参加は貴族の義務であるとも言えた。また王族にお目に掛かれる数少ない機会であるため、王都にいる貴族はこぞって参加していた。名家であるオリエンフェルトの令嬢なら当然参加していたはずだと、アダルベルトは考えた。
「それについては、
よく通るソプラノの声が響いた。
「王女殿下……」
声の主はこの国の王女であり、ゲオルクの婚約者であるフランチェスカだった。
「不参加を認めてもらったとは、一体……」
「クラウディアは私の大切な友人であり、未来の義妹です。彼女が婚約者であるフォーゲンベルク侯爵令息から普段どんな仕打ちを受けているのか聞き及んでいた私は、彼女の意思を尊重し、それを父である国王陛下に伝えたまでです。おかげで彼女と夜会を楽しむことができなくなって、非常に残念でしたが」
同い年であるフランチェスカとクラウディアが仲の良い友人同士であることは、社交界で知らない者はいない。ゲオルクとの婚約も、彼女たちの関係があったからこそ結ばれたと言っても過言ではなかった。
「いくら仲が良いとはいえ、王宮主催の夜会を欠席することを容認するなんて──」
アダルベルトは不満ありげな物言いを口にしようとした。しかし、すかさずフランチェスカが反論する。
「それもこれも、貴方の行いが招いたことです。婚約者を蔑ろにするだけでなく、侯爵家から割り当てられた支度金を別の女性に貢ぐために使用している。すでに調べはついています」
フランチェスカに指摘され、アダルベルトの顔色が悪くなる。なぜそれを知っているのだと言わんばかりであるが、単純に誕生日の贈り物や夜会のドレスなどがまったく送られてこないことを、ゲオルクが侯爵家へ報告したに過ぎない。
「それだけに留まらず、まさかクラウディアに汚名を着せるなんて……まったく、なぜ婚約していたのか不思議なくらいです」
フランチェスカは口元を扇で隠しているが、そのあからさまな溜め息を隠し切ることはできなかった。
「しかし、カレナがクラウディアから嫌がらせを受けていたというのは本当のことです!」
クラウディアが悪女であると信じて疑わないアダルベルトは、嫌がらせがあったことを主張する。しかし、それに異を唱える者が現れた。
「嫌がらせはあったかもしれません。しかし、それがクラウディアによって行われたというのはカレナ嬢の虚偽であるということが、何故判らないのでしょうか」
それは夜会を主催している公爵家の令嬢、ベアトリスだった。彼女もクラウディアの友人であり、フランチェスカの兄である王太子の婚約者でもあった。
「何故ですか?!」
「夜会に出ていないのだから、カレナ嬢の髪を引っ張ったりドレスを汚すなんてこともできるわけがないでしょう」
子どもでも考えれば判ることである。それを指摘され、アダルベルトは顔を赤くさせた。
「暴言は他の令嬢たちから言われたのでしょう。差別的な言葉は許されませんが、彼女たちの婚約者に馴れ馴れしく近づくから言われるのです。そんなことをしなければ、中傷されることはなかったはず」
アダルベルトの隣で、カレナは気まずそうに青い顔をしている。
「で、では……お茶会や衣裳店の件はどうでなんですか。クラウディアが裏で手を回したから、カレナは疎外されているのでしょう?」
諦めの悪いアダルベルトは、なんとかクラウディアの悪行を認めさせようと必死である。そんな彼に、ベアトリスが語る。
「クラウディアは夜会にこそ参加していませんが、代わりにお茶会に顔を出すことが多くなりました」
貴族にとって、お茶会も社交の一部であった。単にお茶や菓子を楽しむだけではなく、情報交換や互いの家の動向を探り合ったりするものなのだ。
「そこで彼女は、婚約者であるフォーゲンベルク侯爵令息から受けている仕打ちを打ち明けてくれました。贈り物どころか、手紙一つ寄越さない。夜会には同伴せず、別の女性を侍らせている。そんな話を聞いて、侯爵令息のお相手であるカレナ嬢を、誰が自分の茶会に招待したいと思うでしょうか」
「つまり、そうやってカレナのことを貶めているのだな。やはりクラウディアの嫌がらせではないか!」
それ見たことかとアダルベルトは声を上げる。だが、婚約者が堂々と不貞行為を行っている不誠実な男であるということを、世間に言いふらされていたことに気づいていないあたり、やはり考えが甘いらしい。
しかもクラウディアが参加していたのは、上級貴族の夫人や令嬢が多く出席するお茶会であった。彼女たちはかなりの情報通で、他のお茶会にも引っ張りだこの存在である。そのため、アダルベルトとカレナの悪評は社交界の上から下へあっという間に伝わっていった。
「カレナ嬢ですが、新興貴族ということで至らないところもあるでしょう。夜会では多少大目に見られていますが、同時に品位を見定められているということを忘れてはいけません。お茶会での情報、そして夜会での振る舞いによって、人々はカレナ嬢がどのような人間なのかを判断しました。その結果が現状なのです」
「そんな……私だって、努力しているのに……!」
ベアトリスの話を聞いて、カレナはショックを受ける。
「努力とは、どんな?」
「えっ?」
カレナは涙目になってみせるが、そんなものには見向きもせずベアトリスは話を続けた。
「貴女はただ、己を飾り立てて、誰彼構わず声をかけているだけではありませんか。そして、フォーゲンベルク侯爵令息をたぶらかしたかと思えば、自分が婚約者であると言わんばかりに振る舞っているそうですね。婚約者のいる相手を略奪した阿婆擦れだと思われても仕方ありません。
リットナー男爵家は商会で財を成し、爵位を得たと聞いています。客商売をしている家ならば、最低限の礼儀を弁えているかと思っていましたが、どうやらそうではなかったようですね。貴族になってからでも、家庭教師を雇うなどして必要なことを学ぶことはできたはずなのに、貴女はそうはしなかった。それは貴女の落ち度なのだから、文句を言われても困ります」
「で……でも」
「衣裳店で注文を断られるのも同じことです。貴女が利用しようとした衣裳店はどれも上級貴族が利用する店ばかり。店側も問題のある客と関わって評判を落とすようなことはしたくないので、礼儀を知らない男爵令嬢を取り合ったりはしないでしょう。貴女の言動ひとつで、ご実家の品位も疑われてしまうということがまだ判らないのでしょうか?」
自分の行いが実家の商売に影響を与えてしまうということを指摘され、カレナの表情は青を通り越して土気色になって、そのまま黙り込んでしまった。アダルベルトもいよいよ言い返せなくなり、同時に自分たちの立場の悪さを自覚し始めていた。
「どうやら、フォーゲンベルク侯爵令息の主張は間違いだった証明されたようですね。フランチェスカ様、ベアトリス嬢。我が妹の汚名を晴らしていただきありがとうございます」
ゲオルクが感謝を述べると、彼女たちは友として当然のことをしたまでだと優雅な笑みを浮かべている。
「さて、婚約についてですが、せっかくですから破棄を受け入れましょう。もともと先代である我が父がフォーゲンベルク侯爵と仲が良かったために結ばれた婚約でしたが、ここまで虚仮にされては黙っているわけにもいきません」
「そ、そうか! 破棄を認めてくれるか!」
一瞬、アダルベルトは嬉しそうに顔を上げた。しかし、すぐにその笑みは消えることになる。
「もちろん認めますよ。フォーゲンベルク侯爵令息の有責で、ちゃんと慰謝料を請求させていただきます」
「えっ?」
「当然でしょう。自らの不貞を晒しておいて、無傷で済むと思ったら大間違いですよ」
それを聞いて、アダルベルトはハッとする。一連の騒ぎを観覧していた貴族たちは、そりゃそうだろ、と呆れ果てていた。
「そもそも、この婚約には私も妹も乗り気ではありませんでした。なので、私が爵位を継承したのを期に婚約関係を見直そうとしていたというのに、貴方のご両親が考え直してくれないかと懇願してくるものだから、なかなか話が進まず困っていたのですよ」
「そ、そうだったのか……?」
この婚約は格下であるオリエンフェルト伯爵家から持ち込まれたものだと思い込んでいたアダルベルトは、クラウディアが婚約解消を望んでいたこと、それを両親が阻止しようとしていたことを初めて知って困惑した。
「だからクラウディアは、フォーゲンベルク侯爵夫妻に提案したのです」
「提案?」
事態を飲み込み切れていないアダルベルトをよそに、ゲオルクは話を続ける。
「一年間、貴方が同伴しないことでクラウディアが夜会に出席していないということに気づかなかれば、婚約解消を認めると。流石にそんなことは起こりえないと思ったご両親はこの提案を承諾しました。しかし、貴方は同伴しないどころか、支度金を横領し、別の女性を侍らせ続けた。そして、今日で約束の一年が経ちました。なので速やかに婚約解消が行われるはずだったというのに──」
そこまで聞くと、自分のしたことが裏目に出てしまっていることにアダルベルトは気づいた。
「知らなかったとはいえ、このまま何もしなければ婚約は解消され、慰謝料もわずかな額で済んだかもしれないというのに。貴方は事もあろうに妹に汚名を着せて大々的に婚約破棄を宣言した。クラウディアの名誉のためにも、彼女には非がないということをはっきりさせなければなりません。正式にフォーゲンベルク侯爵家とリットナー男爵家には抗議文を送り、慰謝料を請求させていただきます」
ゲオルクは、アダルベルトとカレナの顔をしっかりと見ながら宣言した。
二人はその場に立ちすくんでしまった。それを見て、ベアトリスは警備の者を呼んで彼らを会場から強制的に退場させた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。引き続き夜会をお楽しみください」
騒ぎを収拾するために、ベアトリスはゲオルクとフランチェスカに挨拶をして、その場を離れた。
ゲオルクはこの婚約破棄騒動をクラウディアに報告するために、フランチェスカとともにオリエンフェルト伯爵家へと帰っていった。
○
その後、夜会から帰宅した兄から話を聞いたクラウディアは、予想していたよりも派手なことになっており、自分もその場で見たかったと親友と腹を抱えて一晩中笑ったという。
ゲオルクは宣言通り、アダルベルトとカレナの実家に抗議文と慰謝料を請求する書面を送った。彼らの両親たちはオリエンフェルト家の兄妹に土下座する勢いで謝罪し、慰謝料を払った。アダルベルトは嫡男であったが他にも後継者候補となり得る弟たちがいたこともあり、性根を鍛え直すために親戚の辺境伯のもとに送り出された。カレナは実家が営む商会の評判に関わるため、縁を切って修道院に入れられたという。
その後、クラウディアのもとには連日、釣書が送られるようになった。
歴史ある名家で、王家ともつながりができるオリエンフェルト伯爵家の令嬢で、もともと才覚のある人物として名高かった彼女がフリーになったということで、縁談の話が殺到しているのだという。しかも今回の騒動で彼女の策士ぶりが広く知られたことで、評判には拍車が掛かっていた。画策のために参加していたお茶会の夫人たちからも、ぜひうちの嫁にと懇願されているという。
当の本人は、新たな婚約者については気長に選ぶことにして、一年間我慢していた夜会を信頼する友人たちと楽しむ姿が見られるようになったそうな。
婚約破棄の場に相手がいなかった件について 三木谷 夜宵 @yayoi-mikitani
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