20:幸せという感覚
春人のアパートへそのまま浅木は一緒に部屋へ入り、ベッドの前まで歩く。
室内で二人きりになると、なんとなくお互い恥ずかしさが急に湧きあがり、照れながら視線を合した。
「ハル……」
顔を近づけ浅木は春人の唇を合わせた。
何度か触れるだけのキスをすると、珍しく浅木が春人の口内へと深い口づけを始めた。
一瞬驚き春人は目を開けたが、浅木の顔を見えた瞬間、そのまま浅木がすることを受け入れることにした。
しばらく行為が続いたが、唇を離し、お互いの顔を見る。
春人は頬を赤く染め、少し息が上がっていて、どこか色気も感じる表情になっている。
浅木も何かのスイッチが入ったように、今までとは違った表情でどこか野性的な感じがしていた。
そのままベッドへ二人は倒れ込み、お互いの服を脱ぎ始める。
肌を見せ合うことになって、浅木は一瞬声を飲む。
以前河和田組の武村の蹴られた跡が、僅かだが残っていて、それ以外は綺麗な白い肌が目に入ってくる。
思わず見とれていた浅木に春人は、彼の傷だらけの肌に思わず触れた。
「お、おい……」
浅木は驚いて思わず声を出した。
「触れてみたかったんだ。傷がすごいね?」
春人はそう言いながら傷に沿って指をゆっくりと走らせる。
その感触に浅木は少し気持ちがざわつき始めた。
「あとすごく浅木、ドキドキしてる」
恥ずかしそうに笑む春人に浅木は苦笑する。
「当たり前だろう?お前だってそうだし」
言って春人の胸に手を当てた。
自分と同じくらいだろうか?かなり早い鼓動を感じる。
そのまま抱き合い、浅木が春人の上に乗ると春人の首筋に唇を当てた。
小さく呻く声が聞こえ、思わず浅木は笑みを浮かべたが、春人の裸体を肌で感じたく、唇で触れたり掌で触れ回った。
春人の体が出会った頃よりは痩せているように思え、ここまで働かせてしまっていることに申し訳なさを感じた。
春人は浅木の動きを静かに受け止めている感じがして、それに合わせて浅木は更に動き出す。
抱き合いながら再び上下になり視線が合った。
「嫌な感じするか?」
上から浅木は思わず尋ねてしまったが、春人は優しく笑んで言った。
「そんなことないよ、全然。浅木とこうやって抱き合えて良かったって思った」
その言葉が何より浅木は嬉しくて、春人のおでこにキスをし、唇にもキスをした。
優しく春人の頬を指で撫でていた浅木は、思い切ったことを言ってみることにした。
「ハル、もうちょっと進んでみないか?」
一瞬春人は驚いた表情をしたが、静かに頷いた。
「……いいよ」
二人はそのまま再び抱き合い、触れあう段階から次の段階へと進む覚悟ができた瞬間だった。
誰かに髪を撫でられた感触で春人は目を覚ました。
撫でられた方へと顔を向けると、少し上体を起こした状態の浅木が、優しい表情で春人を見ながら何度も髪を撫でていた。
あまりにも穏やかな表情だったので、春人は少し驚きと恥ずかしさもあったが、幸せを噛みしめた。
幸せを感じた後、二人はベッドの下に散乱している服を着始める。
服を着ながらふと、浅木の背中に目が行った。
「あれ、浅木の背中って……」
春人に言われ浅木はくるっとこちらへと振り向いた。
「ん?なんだよ」
「背中……何も入ってないんだね」
「あ?ああ」
問われて浅木は背中の話を始めた。
「俺は刺青を入れるつもりだったんだ。でも親父が入れるなって言ってきてな。理由を聞いても教えてくれなくて、こっそり入れてみようかと思ったけど、何度か親父が“墨、入れてねぇよな?”って確認してきてさ。それで諦めたんだよ」
「そうなんだ。浅木は何の刺青入れたかった?」
「う~ん。得にはねぇけど」
「ないの?」
「まぁな。墨入れると極道の世界に完全に入ったって証明になるかなって思ったんだけど、まさか入れるなって言われるとは思わなかったわ」
恥ずかしそうに言う浅木に春人は優しく笑んだ。
「組長さんがなんでそう言ったかわからないけど、ちゃんと意味があって入れるなって言ってる気がするな」
「そうか?」
「浅木から聞く組長さんの印象からして、何となくだけどね」
「ふ~ん、でもそうかもしれないな」
優しく浅木は春人に微笑むと、そのまま抱き寄せた。
実際のところ、春人は浅木の背中に刺青がないことにどこか安堵していた。
浅木がまだ表の世界へ戻れるチャンスがあるような気がしたからだ。
けれどおそらく浅木は、世山組の組長がいる限り、この極道の世界に居ることを望むだろう。
浅木にとっては大事な人であり、“親”だ。
本来の肉親には大事にされなかったが、この世界にいる“親”には思われていて、こちらにいることが浅木にとっての幸せなのだ。
そう思うと春人は、いつか借金を返した後のことを考える。
返した後、二人はどうなるのだろうと。
ずっと関係を続けることができるんだろうか?
そう考え始めたが、すぐに考えることを止めた。
今考えたとしても答えなんてでない。
今はただ、この幸せを噛みしめていればいいんだと。
そう思うことにした。
服を着た後、浅木は少し咳払いをしながら話し出す。
「……俺とするの、今後も大丈夫そうか?」
ぎこちなく尋ねる浅木に春人は少し眉をひそめた。
「何を言ってるの?大丈夫に決まってるよ!」
少し不満そうな声で言うので浅木は少し焦って春人を見た。
「な、なんで怒るんだよ?」
「怒ってないけど、なんでそんなこと聞くのかなって」
「そりゃあ……気になるからよ」
視線を逸らしてどう返せばいいか浅木は躊躇する。
「……嫌だったら……最後までいかないよ」
顔を真っ赤にさせながら言う春人に、浅木は満面な笑みで再び抱きしめた。
いつものように浅木はアキラの店のカウンター席の隅で、店内を見渡し状況を見つめている。
ちらりと春人に一瞥すると、今までのことを一つ一つ思い出していた。
春人と出会った時は正直、ただの哀れな男だとしか思わなかった。
運悪く父親の借金を被ってしまい、一千万という大金を今後、何年もかけて返済しなければならないという重荷を背負っていく運命の男。
見ているだけで精神が不安定で、いつか逃げ出すんじゃないかと思い、毎日監視することに決めたことを覚えている。
常に精神的に疲れていて、客との対応に不安を感じている。
見るからに不器用で慣れていない。
こんな状態で今後働けていけるんだろうかと思い、トラブルになりそうになると思わず助け船を出していた。
そうしていないと客とのトラブルがいつか起きるんじゃないかと、ただ心配していた。
見た目も浅木からすればタイプじゃないし、おまけに異性愛者でもあるし、ちゃんと借金を返済してくれればそれだけで良かった。
レストランでも真面目に仕事をしているか気になった浅木は、春人がいなくなってから綾葉に状況を聞いていた。
「少し疲れた顔をしてたけど、なんとか頑張ってるみたいよ」
笑いながら彼女は言っていたが、それでも監視を怠るのはマズイ気がして、浅木は毎日のようにレストランにも通っていた。
とりあえず、レストランでは少しのミスはあったりするが、それも大したことじゃなかった。
とにかく見守り続けることが正しい選択だと思い、浅木は毎日、他の店を周ることを忘れ監視を続けていた。
他の店はある程度落ち着いたところが多いので、大丈夫だろうと判断したのだ。
そしてそんなある日、浅木自身に転機が起きた。
客のセクハラに悩み過ぎている春人を、開店前に桜並木のある橋で見つけたのだ。
ここへ来る前、レストランで春人がミスをしたことを耳にしたのだ。
ここ最近、注文を間違えたり、食べ物を運ぶ客を間違えたりと、凡ミスが毎日のように起きているということ。
春人自身の精神がかなりきていることを悟った浅木は、何かアドバイスを言うべきか迷っていた時だった。
橋から川を見つめる春人は、今にも川へ飛び込むんじゃないかと思う程表情は暗く、一点を見つめたままだった。
だから思わず声をかけたのだ。
「何やってんだよ」
振り返った春人の表情の重さは尋常じゃなかった。そして自分に向けられた目は、あまりいいものを感じなかった。
まるで面倒くさい奴に出会ってしまったと言った感じで。
春人は尋ねてもしばらくは本音を語ろうとはしなかったが、浅木が悩みの種を口にした途端、ようやく春人が悩みを話し始めたのだ。
当然、客のセクハラにどう対応してよいかという悩み。
接客をしたことがないと確かにそういう悩みになるだろう。おまけにここはファミレス等の家族が行けるようなアットホームな店でもない。特殊だ。
だからこその悩みで春人は行き詰っていたのだ。
浅木は春人を今までずっと見続けていたので、それに対しての答えを伝えてみた。
“相手の立場になって考えて行動してみろ”
簡単に言えばそういうことだった。
ただ全員それが通用しないことも知っている。その時は自分が助けに行けばいいと思っていたので、春人自身がある程度できる対処方覚えていくしかないのだ。
世の中厳しい世界だ。
誰も助けてくれない時もある。そういう時は自分で立ち上がっていくしかないのだ。
自分自身もそうだったように、己で解決していくしかない。
ようやく春人の表情に明るさが出てきた。
自分が言ったことで何かを感じ取ったらしく、浅木もそれを見ると安心した。
そして春人は晴れやかな表情で言うのだ。
「ありがとうございました!」
なぜかその感謝された言葉が、浅木の心を突いたのだ。
優しく、温かく。
感じたことのない、思い。
その言葉が適当で言ったのではなく、心からの真っ直ぐな感謝の言葉。
浅木は戸惑った。
(なんだこれは?)
その温かみが春人を見ていると全く消えない。
ずっと冷えていた心にふわりと温かい風が舞うような感覚。
これが何かもいまいち理解できず、その場は終わったが、それからというもの春人に感謝されたり、春人が上手く客と対応できる姿を目撃し春人が嬉しそうにしていると、もっと温かい気持ちを感じることが多くなっていった。
やがて少しだけこの気持ちの理由がわかり始めたのだ。
これは恋だと。
気恥ずかしくて最初は認められなかったし、信じたくなかった。
一人の人間に執着するなんて自分らしくないし、したとして得にもならない。
ずっと気のせいだと心中呟いていたが、春人を見ると否定する気持ちが飛んでしまう。
どうしても認めることができず、当時、体だけの関係があった自分より二つ下の男、祥に会って体を求めた。
この淡い気持ちを忘れる為だった。
自分もそして相手も丁度気持ちも上がってきた時、浅木の脳裏に春人が浮かんだ。
必死に消そうとしたが再び思い出す。
とてもじゃないがこのまま祥と続けることができなくなった。
「悪い、今日は無理だ」
「え?どうして?桂介さん」
がっかりした表情ですがってくるが、浅木は彼を拒絶した。
(なんなんだよ、これ……)
祥と別れた後、浅木は一人イライラした。
母親から愛情を受けなかった浅木は、誰にも本当の自分を見せることもなかったし、本音を言ったこともなかった。
一人の誰かと恋愛関係になるつもりもなかったし、なったところで自分が本当に幸せになるとも思ってなかった。
そう今までは思っていたのだ。
しかし、春人と出会って浅木は色んなことが覆っていく。
一人の人間の為に守ろうとする気持ちが生まれ、笑ってくれることを望むようになり、不幸になることが最も傷つくことになった。
浅木は人の為に今、生きているのだと初めて気づかされた。
今まで自分勝手に生きてきたのに、他人の為に自分を犠牲にするなんて絶対考えられなかった。
組長は確かに春人と近い存在かもしれない。
尊敬し、自分のことを気遣ってくれていることも嬉しく思い、その思いに応えたいと思うから同じのように見えるが、どこか違う気がした。
それからは春人を見るたび、気持ちが明るくなったり辛くなったり、苛立ったり、常に気持ちが忙しかった。
だけどそれは嫌じゃなかった。
居られるのならいつも春人の傍に居たい。
そう思う気持ちがどんどん大きくなっていくと、きっかけによって彼に気持ちを知られることになった。
この時ほど自分がした行動に後悔が募ったことはなかった。
今となってはだが、あの時の浅木はもう全てを捨ててどこかへ行ってしまいたい気持ちになったほどだ。
確実に嫌われると、そう思ったからだ。
だから舎弟の小林に、ケツモチの担当を変えてもらって浅木は逃げた。
会わせる顔がなかった。
会ったところでどんな顔をすればいい?
ただ気まずいだけだ。
でも逃げたツケが浅木に回ってきた。
春人を傷つけてしまった。
殴られ、体を蹴られたことでうずくまっている春人を目の当たりし、心底自分の馬鹿さ加減、弱さを思い知らされた瞬間だった。
大切だった存在がこんなにも傷ついていたのだ。
自分の心が強ければこんなことにならなかったのだ。愚かで馬鹿者だと思った。
だからこそ、怪我を治す為に闇医者の室内で話した会話で、初めて春人に己の弱さを伝え、今まであった自分の半生を伝えた。
他人にここまで話したのは組長以外いないだろう。
流れ的に話をする雰囲気にはなったが、春人なら伝えてもいいと思ったのだ。
多分知って欲しかったのだと思う。
伝えたところで春人がどう感じるかなんて考えてなかった。でも春人も真剣に一字一句逃さず聞くことに集中していた。
そしてその想いが伝わったのか、春人はお試しではあるけれど、付き合ってみたいと言ってくれた。
浅木は嬉しかったのだ、本当は。けれど再び臆病風が吹いた。
傷つくことを恐れた。
試しに付き合ってみて、やっぱり無理でした、触れられるのが嫌でしたと言われたら、浅木の期待していた気持ちが一気に底に落ち、傷つき、もう二度と誰も好きになれなくなるんじゃないだろうかと、そう思ったのだ。
最初はその提案を断ったが、春人が好きだった大学生時代の女といる姿を見た瞬間、己が傷つくとか、そんな気持ちはどこかへ飛んで、気づいたら春人に付き合いたいと言っていた。
浅木を動かしたのは嫉妬だった。
自分が嫉妬するなんて想像していなかった。
何度も近い感情はあったが、それでも大して気にするほどでもなかったのに、春人が一時的とはいえ、好意があった女と会話している場面を目にすれば、普段よりは嫉妬は強くなる。
下手したら奪われると瞬間、思ったのだ。
けれど春人は女の事は全く気にも留めてなかった。それより浅木が付き合いを申し出た時に春人は笑顔を作ったのだ。
嬉しかった。自分の方を優先してくれたことが。
そして浅木がする行動を素直に受け止めてくれ、感じてくれ、結果浅木を愛してくれた。
名古屋へ行くことになって一週間程会わない日があったから、それがお互い色々考える期間になったのかもしれない。
今こうやって浅木の傍に春人が居ることが、信じられないが幸せだった。
ふと再びカウンターから春人に視線を送る。
カウンター内で仕事をしている春人は、その視線に気が付いた瞬間、優しく微笑んだ。
この瞬間が幸せだ。
この時がずっと続けばいいと、浅木は心底思った。
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