5:春風
春人は浅木に転ばされてからずっと床に座り込んだまま、しばし茫然としていた。
先ほどの騒動に唖然としていたアキラは、ようやく我に返り小走りで春人の方へと向かってきた。
「ハルちゃん!大丈夫?」
「……はい、俺はなんとか」
「もうびっくりしたわ!何が起きたの?」
春人はしばらく頭がぼおっとして、すぐに言葉が出てこなかったが、ゆっくりぽつりぽつりと伝えた。
「あの短時間でそんなことになっていたのね、びっくりしたわ」
「……俺もです。なんで急にこんなことに」
頭を軽く掻きながらゆっくりと春人は立ち上がった。
「大丈夫、ハル君?」
一人のお客が心配そうに声をかけてくれる。春人は不思議な気持ちになった。
「は、はい。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「いいよ、あいつ、前からちょっとやばかったよね?」
その問いかけには困った表情して誤魔化したが、確かに一番の悩みの客だったのは確かだった。
春人が立ち上がってからようやく店内の客人たちが会話を始める。
アキラはゆっくり歩きながらカウンターに戻ると、客に向かって深々と頭を下げ、
「皆様に不快な思いをさせてしまいすみませんでした!サービスとしてお酒を一杯こちらから奢らさせていただきます!」
そう叫ぶと周りの客がおおっと声を上がる。
「あとはうちの肉ジャガもサービスで!」
そう言うと更に客たちはわっと歓声が上がった。
その光景を見ると、本当にアキラさんの肉ジャガは人気があるんだなぁと感心した。
確かに初日に食べたが、味は本当に美味しかったし、気持ちも少し上がったことを思い出した。
懐かしいことを思い出したが、ハッと現実に返り春人は慌ててアキラの元へと向かった。
「アキラさん、お客に振舞った酒代、俺の給料から引いて下さい!俺のせいなので……」
「いいのよ、危ない客だと思いながら私が対応しなかったから」
困った表情で言うアキラに春人は納得いかなかった。
「でも!」
言いかけると後ろから春人の肩をポンっと叩く浅木が現れた。
随分と早い帰りだったが、少し疲れた表情をしている。
「俺が立て替えるからいいよ、アキラさん」
落ち着いた口調で活きなことを口にしたが、やはり春人は揉めたのは自分の責任だと思い、口を挟む。
「いや、俺が……」
「いいって。俺が対処する仕事だったんだ。お前のせいじゃない」
ぴしゃりと制してくる浅木に春人は何も言えなくなったが、ふと木立に何をしたか気になり彼に尋ねた。
「木立さんの対処、大丈夫ですか?」
春人は恐る恐る尋ねると、少しぎこちなく浅木は答えた。
「あ、ああ。とりあえず話で決着はつけたから」
「ほ、本当に?」
「本当だ。もし喧嘩になってたらこんなに早く帰ってこねぇだろう?」
そう返され春人は頷いた。
「そ、そうですね。すみませんでした」
謝る春人を浅木は黙って見つめ、視線を逸らしながら口を開く。
「悪かった…俺がもっと早く動けばよかった」
「そんなこと……」
少し落ちたトーンで言う浅木に春人は言いよどむ。
「今のお前なら対応できるって思ったんだが、相手がかなり手強かったな」
少し笑むが再び渋い表情に戻る。
「それは俺もびっくりして……」
春人は木立が豹変した瞬間を思い出した。
急に態度が強引になったので正直驚いたのだ。
毎日通ってきた木立は、常に自分を執拗に追いかけてきた。
セクハラする客は最初多数いたが、そのうち春人が対応できるようになったら徐々に減っていったのだ。
しかし木立だけは変わらず、注文を書き留めている時にふっと手を触れてきたり、恋人はいるか?とか根掘り葉掘り尋ねてくる。
ここまでしつこいのは彼だけで、時々周りの客にも窘められていたのだ。
「よっぽど気に入られてたんだな、お前は」
苦笑しながら浅木は春人を見る。
「知りませんよ、俺、ゲイじゃないって伝えたんですけど・・・」
「知っていても諦めきれなかったんじゃないか?逃げられると追いかけたくなるタイプだったかもな」
「そんなこと言われても・・・」
困惑した春人に浅木は更に笑っていたが、何かを思い出したのか、舌打ちをした。
「アキラさんに悪いことしちまったかも」
浅木はちらりと春人の背後で静かに聞いていたアキラに視線を送る。
アキラは怪訝そうに浅木を見つめた。
「どうして?」
「どうしてですか?」
アキラと春人は同時に浅木に尋ねた。
「この店の太客を失っちまったからよ」
「あ、木立さんって本当にお金持ってたんですか?」
「持ってたみたいだな。アキラさんにこの前聞いたら、毎日かなりの金をここに落としてたらしいから、まぁお前のおかげなんだけど」
ちらりと見られ春人は気まずそうな表情になる。そしてアキラにも目線を送ると苦笑していた。
まさか本当に金持ちだったとは。
見た目だけではわからないものだと春人は痛感した。
「す、すみません……」
「なんで謝るんだよ、お前がそこまで犠牲になる必要ないからな。あんな変態野郎と付き合うなんて俺の夢見が悪くなるわ」
気分悪そうに言う浅木に春人は少し笑う。
「どちらにしてもありがとうございました」
「いいよ、あとマジでアキラさん、すみませんでした」
ずっと背後で静かに聞いていたアキラに向かって素直に謝る浅木に、少し驚いた表情になるが
「大丈夫よ、もう全ては解決したんだから」
そう言って、アキラは浅木を許した。
「さ、営業再開よ!ハルちゃん、やるわよ!」
バーの営業が終わり扉をアキラは閉めた。
「今日は本当にお疲れ様!」
「いいえ、本当にすみませんでした」
春人は再度アキラに向かって頭を下げる。しかし優しくアキラは春人の肩に手を置いた。
「もういいわ、本当に。一番悪いのは暴走したのが木立さんですもの」
「そうですね……」
そう言って春人は少し俯く。
空気を変える為にアキラは、掌をパンっと叩き、さあさあと言いながら浅木と春人に声をかけた。
「もう帰りましょう!そして今日のことは忘れるの、ね?」
「ああ」
浅木は頷き、それを見ていた春人もぎこちなく頷いた。
「それじゃあね!」
手を振りながらアキラは店を後にし、残された浅木と春人はその場からアキラを見つめた。
アキラの姿が見えなくなると、急に浅木がぽつりと言い出した。
「あいつが豹変した理由、俺たちっていうか、俺のせいだったんだ」
突然何を言い出すのかと思い、春人は驚いて彼を見つめた。
「どういうことですか?」
「昨日さ、ここで俺がお前に変なこと言ったろ?」
変なことと言われて一瞬悩むが、ふっと昨日、名前で呼んでもいいかと言われたことを思い出した。
「もしかして俺の名前の話?」
「……そう」
「なんでそれが原因なんですか?」
「あいつ、俺らの昨日の話を聞いていやがったんだ」
「え?」
そう言われ店じまいの時のことを思い出すが、あの時もうお客はいなかったはずだ。
「でも俺たちしかいませんでしたよね?」
そう返すとすっと浅木は指を近くにあるごみ置き場を指した。
近くにアパートが建っていて、そのアパートの住人が使用している、高さ約1mぐらいのごみステーションがあった。
怪訝に思いどういうことかと浅木に尋ねた。
「あそこのゴミステーションに隠れてたんだってさ。しゃがめば丁度隠れるには良い場所だよな。そこに隠れていたらしい。そこでお前をつけようと思って待っていたらしいぜ、完全にストーカーになってたな」
その話を聞いた春人は再びゾッとした。
あいつはなんでそこまで自分に執着していたんだろうと思う。
「なんで俺なんかに……」
「そのきっかけは俺のせいみたいだ」
「え?」
なぜ浅木のせいなのか、更に春人は疑問に思う。
「どうしてですか?」
「俺とお前が最近仲良くなってるように見えたらしくて、気になって昨日あそこのゴミ箱で待ってたらしい。そうしたら俺がお前に名前で呼んでもいいかなんて言ったから、勘違いして今回の行動になったらしいぜ」
「そうだったんですね。でも俺たちが親しく見えたっていつのことなんだろう?」
言うと浅木は溜息を吐き答える。
「お前が俺に悩みを相談した頃ぐらいだと思う。お前がセクハラ客を上手く対応し始めた頃から、俺らが楽しげに会話してるように見えただとよ。まぁお前のことを常に見てるわけだから、お前の微妙な変化は見逃さんよな」
改めて言われると、どれだけ俺のこと監視していたのだろうと思うと、春人は寒気が止まらなくなる。
「それより……」
春人は思わず話を変えた。
「どうしてその話を知ってるんですか?」
先ほどから感じていた疑問を春人は浅木にぶつけた。
「ああ、さっきあいつを店から追い出した時に聞いたんだ。急に、俺とお前はどんな関係だって聞いてきたんだよ。俺はなんでそんなことを聞いてくるかわからなかったから尋ねたら、昨日のことをベラベラ話出した」
「な、なるほど…」
春人は納得し頷きはしたが、今後の木立の動きがどうなるのか気になった。
「もう……木立さん来ませんよね?」
震える思いで浅木に尋ねる。
「大丈夫だ、俺がもしバーに来たら組全員でお前をボコるって脅したら、ビビッてたわ」
「そ、そうなんですね。良かった~」
ホッと胸をなでおろすが、浅木は少し不安なことを言う。
「アキラさんの店には来ないけど、昼のレストランとかお前の家は知らねぇけどな」
「え…!?」
みるみる恐怖に怯えた表情になっていく春人に、浅木は少し笑って言った。
「冗談だよ。お前に対しても手を出したらボコるって言っておいたわ」
「ほ、本当ですか?それ、早く言って下さい!」
「忘れてた!」
笑いながら浅木は春人をからかったが、彼の言葉を信じるしかないが、ある程度は警戒した方がいいのかもしれない。
とにかく木立の件は解決?したようで、どっと急に疲れが春人を襲った。
その時、二人の目の前にふわっと一枚一枚、薄いピンクの花びらが風に乗っていく。
気が付いた春人は桜だと思った。
「桜、咲いてたんだな」
花びらを見ながら浅木は言った。
「今年は遅咲きでしたからね。ちょっと散るのが遅かったみたいです」
ふわふわと揺れながら散る花びらを二人は一緒になって視線を送っていく。
それを見ながらふと、春人は昨日のことを思い出した。
「俺の事、ハルって呼んで下さい」
「……お前」
「お前じゃないですよ?」
じっと浅木を見つめ春人は言った。
「ハルです」
「気持ち悪くねぇのか?お前は。良い様に俺に利用されてるって思わねぇの?」
「……わかりません。でも昨日あなたが俺に“ハルって呼んでもいいか”って尋ねた時、とても俺を利用するために言ったようには見えませんでした」
「………」
春人の言葉に浅木は黙り込む。
あんなに恥ずかしさを隠しながら言っている姿が、とてもじゃないが春人を利用しようとして言う姿じゃない。
「なんだよ、ったく…」
小さく舌打ちをする浅木に春人は少し笑む。
そして決意したように浅木は春人を見据えた。
「これからよろしくな、ハル」
「はい!よろしくお願いします!浅木さん!」
お互い見合うとふっと笑い合う。
二人の関係はとても複雑だが、それでも親しくなれたことに少しだけ春人は嬉しく思った。
そして春人はある提案が浮かぶ。
「よかったら……ちょっと遅いですけど、今度花見行きませんか?」
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