異変

──……ここは?


「あ。目がさめた?」


 目を開けると、白い木造ジェットコースターが見えた。国内最古より少しだけ新しいんだっけ。

 自分の様子を確認する。ベンチに寝かされていた。頭上を見上げると巨大車輪が見えた。


「大丈夫? ほら、冷たい麦茶でも飲んで」


 巨大車輪から少し目線を下げると、彼女が麦茶を差し出してくれた。


──ありがとう。


 起き上がり冷たい麦茶を口にすると、だんだんと意識がはっきりしてくる。

 たしか、ゴーカートに乗った帰り道、二人で広場を歩いていたらめまいと耐え難い眠気に襲われたんだ。その後の記憶がない。


「重かったんだよ。ここまで君を運ぶのは」


 それは悪いことをさせた。


──すまない。助かったよ。


「今年は暑かったし、立ちくらみかな?」


 そうじゃない。

 もう潮時だ。そろそろ行かないと。これ以上ここにはいられない。


 目線を上げれば目に入る巨大車輪が「観覧車」という名前であることは、この前教えてもらった。


「観覧車に乗れば、一番高いところから遠くの海が見えるんだよ」


 僕の視線に気づいた彼女が声をかけてくる。


「海だけじゃなくて上から見る山並みも綺麗だよ。君に見せたかったな」


 彼女が軽いため息をついた。


「観覧車はメリーゴーラウンドの次に好きなんだ。昔はこの子も動かせた。手が届く範囲の整備も頑張った」


 彼女は観覧車を眩しそうに見上げながらつぶやく。


「でも、この大きさの子はさすがに1人じゃ見きれないね。特に高所への上がり方が分からなくてさ。軸をこまめに掃除しなかったから、潮風にやられてしまったんだ」


 残念そうに見回して、視線を落とした。


 整備の仕方が分からないけど出来る範囲のことをしたとは、きちんと人に教わったのではないのか。もしかして見様見真似みようみまねか……?

 いや、少なくともメリーゴーランドの電気系統の整備は見ただけで真似できそうにはない。




「落ち着いた?」


──そうだね。一眠りしたら大分落ち着いたよ。


 冷たい麦茶を飲み干して一心地付く。めまいも眠気も収まってきた。

 今はいつ頃だろう? 昼ごはんを食べそこねてしまった。僕はいいけど。


「あれ……? 何の音だろう?」


──音? 何か聞こえるの?


 彼女が前方に乗り出して、目を細めて注視する。


「何か、ミシミシ、っていってない……?」


──いや、僕には分からないけど。


「ちょっと見てくるね。気のせいならいいんだけどさ」


 彼女はベンチから降りて、見つめていた先、観覧車の横の白い木造ジェットコースターへ小走りで駆け出した。


──待って、僕も行くよ。


 嫌な予感がする。僕の野生の勘はままあたる。


 息を切らせる間もなく立ち止まった彼女に追いつく。彼女は一番近いジェットコースターの柱を注視していた。眉根を寄せて。


──何が聞こえたの?


 彼女は応えず、手を柱にかざす。


「元々下の方は虫にやられていたけど、この前見たときよりもさらに、大分腐食が進んでいる……」


 たしかに前より白木柱の変色具合が酷くなった気がする。今まで気づかなかったけど、柱の下の方は不自然に細くなっている。気がする。


──……ねぇ。


 彼女は目を閉じた。


──ここから離れたほうがいい気がする。


 異音とやらを聞き取ろうとしているのか、耳をすませているようだ。僕の声は届いていない。


ミシッ


 ……なんだ!?


ミシッ、ミシミシッ


 僕にも異音がはっきりと聞こえた。危険の匂いがする。全身の毛が逆立つ。嫌だ。ここにいたくない。

 目を凝らして異音がした方向を睨む。反対側のジェットコースターの木造│やぐらがきしむ音だ。


──ここから離れよう!


 目を開いた彼女は異音の方向を探しているのか、周囲を見回している。


──何かは分からないど、ここは危険だ!


 ぼくの視界に、反対側のジェットコースターの木組みがゆっくり外れていくのが目に入った。


──崩れるぞ!


 彼女の作業着のすそを力任せにひっぱる。一人で逃げるという選択肢は僕には無かった。


「何? どうしたの?」


 崩壊に気づいていないのか? 説明する時間はない。とにかく離れないと。


──…………!!


 彼女の名前を叫ぼうとしたが、その名が記憶に無い。

 反対側のジェットコースターがゆっくりと外れて崩れていく。やぐらの下の方から、ゆっくりと。波打つように。


ドオオォン!!


 外れた木組みが地面に叩きつけられて轟音をたてた。


「…………!!」


 さすがに彼女も気づいた。

 外れて落ちた木組み引きずられてその周囲の木や柱も連鎖的に崩れていく。これでは僕たちの目の前の白木柱も、頭上の木組みやレールが崩れてくるのも時間の問題だ。


「あ……、あ……」


──早く! 逃げるぞ!……!!


 彼女は崩れたあたりを見やり目を見開いたまま固まっている。僕が服を引っ張っても裾が伸びるだけだった。その間にもジェットコースターの木組みやレールは崩れていく。崩れは徐々に横に広がって、ここへも迫ってくる。


「……の、せいだ……」


──それはあとで聞く! いいから動け!!


 ジェットコースターの骨組みとレールはもう半分近く崩れている。けたたましい轟音をとどろかせながら。ゆっくりと。確実に。僕たちの方へ向かってくる。


「私の……。私が……。もっと…………れば……」


 もう直ぐそこまで崩壊が迫っている。

 もし目の前の白木柱も倒れて頭上に大型組み木とレールが降ってきたら、僕たちはひとたまりもない。


──……!!


 彼女の名前を叫ぶ代わりに、咆哮をあげる。作業着の裾を引っ張りながら。

 頼む。動いてくれ……!


「……っ! 君を逃さないと」


 彼女がやっと気づいてくれた。僕はいい。君の方が心配だ。

 僕は観覧車の方に向かって駆け出し、すぐ止まって振り返る。


「良かった。走れるんだね……」


──動けなかったのは君の方だよ。


 よし。彼女は小走りでちゃんとついてきている。


 その時、彼女の背後の白木柱が震えた。

 数秒前まで僕たちが立っていた場所に木片が降ってくる。


──こっちに走れ! 振り返るな!!


 彼女がさらに駆け出したのを確認して、僕も体の向きを戻し観覧車へ先導する。


「はぁ、はぁ……」


 荒い息が気になり振り返ると、彼女が触れていたジェットコースターの白木柱がこちらに倒れてくるところだった。

 ちょうどジェットコースターの頂点を支えていた長い柱だ。


 早く! 走れ!!


「はぁ、はぁ……」


 彼女は全速力で走っているつもりだろうが、足がもつれてて遅い。

 巨大な木柱が倒れてくる。ゆっくりと。


 柱の左右に逃げようにもそこへもジェットコースターの巨大骨組みが連なって襲ってくる。しかも道の脇は生垣になっていて横に避ければ身動きが取れなくなる。このまま真っ直ぐ観覧車へ逃げ切るしか無い。

 全速力で走ればギリギリ間に合いそうだ……!


 木柱はもう頭上まで迫っている。ゆっくりと。確実に。


「あっ……!」


 鈍い音と共に彼女は地面に倒れた。その上に巨大白木柱が彼女を押し潰さんと迫っている。

 倒れたまま後ろを振り返り木柱を目にした彼女は、驚愕で固まる。


──危ないっ!!


 僕は叫びながら跳躍し彼女の上に覆い被さる。

 僕はいい。どのみちもう長くない。でも、せめて、彼女だけは……! 神様どうか!


 辺りに凄まじい轟音が響き渡る。僕は目をつむって背中への衝撃に備えた。

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