第4話「ねえ、私はこの世界に存在する人ですか?(4)」
「これが解けると、次の式に使える……」
あ、夢を見ているようじゃ駄目か。
明るい未来になるように、私が努力しないといけない。
そんなことを理解していても、実際に努力できるかどうかは別問題。
やっぱり自分の人生は変わらないのかもしれない。
変わるかもしれないけれど、変わらない可能性の方が高いんだろうなって思う。
「……演じるの……もう疲れちゃった……」
高校を卒業したら、自分を知らない人たちがいる世界に行けばいいのかな。
演技することもなく、自分を偽る必要もない、ありのままの自分でいられる世界を探しに行けば私は変わることができるのかな。
「凄いな、やっぱり
自分が机と黒板との睨めっこに夢中になっていると、背後から聞き慣れない男子生徒の声が聞こえた。
気を引くための声ではない。
私のことを称賛する声が、言葉が、聞こえてきた。
「俺は解き方、分からなかったから」
聞き慣れない声だった。
むしろ、初めて聞く声の気がする。
だから、誰の声か判断することができなかった。
「友達と別れたあたりから、様子が可笑しく見えて……それで心配してたが、何も問題はなさそうだな」
ルーズリーフと友達になりかけるくらい下へ下へと向きかけた顔を、やっとの思いで上に向ける。
だけど、視界には誰も映らない。
私が後ろを振り返らない限り、声の主は分からない。
「私のこと、気にしてくれたの?」
ああ、嫌な予感がする。
後ろを振り返りたいのに、後ろを振り返ったら最後のような気がする。
何が最後?
そんなの分からないけど、嫌な予感がする。
「ああ、当然だろ」
当然?
私のことを気にするのが当然?
意味が分からない。
私の些細な変化に気づくような人が、この世界に存在するわけがない。
「桝谷とは、一年のときから同じクラスだからな」
やっぱり、聞き慣れない声。
一年のときから、同じクラスにいた人の声だと思うことができない。
(でも、どこかで聞いたことがある……)
一年のときから同じクラスというのなら、聞き馴染みがないだけで聞いたことはあるはず。
いくら仲良くないと言っても、声を聞いたことがないクラスメイトなんているわけがない。
(この声は……)
さっきの英語の授業で、私はこの声を聞いている。
この声の、主というものを私は知っている。
「…………」
恐る恐る、だったと思う。
挙動不審と言われても仕方がないくらい、私はゆっくりと自分の背後に立っている男子生徒の正体を確認しようと振り返った。
この嫌な予感が、どうか外れますようにと願いを込めて。
「たまに使わせてもらうんだ、この黒板」
見間違えることのない唯一の容姿をしていて、女の子でも憧れを抱いてしまいそうな艶やかな黒い髪。
誰だか気づかない方が可笑しいくらい。
「……俺のこと、誰だか分かるか?」
「一年と数週間クラスメイトをやっている仲……」
有栖川蒼の声は、こんなに綺麗だったのかとか。
有栖川蒼は、こんなにもペラペラと喋る人間だったのかとか。
ツッコミ要素満載。
こんな出会い方、こんな知り合い方、私は望んでいなかったような気がする。
「それにしても圧巻だな……。よく解けてる」
有栖川蒼は黒板に目を向けながら、私との距離を縮めてくる。
私は有栖川蒼を制止させることもできず、有栖川蒼は私に近づいてくる。
一歩。また一歩。
もうすぐで彼は、私の隣へとやってくる。
「
私が書きこみを進めていたルーズリーフを覗き込んできた
何が面白いのかさっぱり分からないけれど、凄く綺麗な笑みで彼は私を魅了してくる。
冷酷冷徹とか、無口とかおとなしいとか、そんなイメージを抱かせていた有栖川蒼はどこへ行ってしまったのか。
「……本当に、有栖川蒼?」
なんて馬鹿げた質問をクラスメイトに投げかけているんだろうと思わなくもない。
だけど、まるで違った印象を与える有栖川蒼が悪い。
一体私の身に何が起きてしまっているのか、状況を整理するだけでも大変。
落ち込むに落ち込んで、明るい未来が見えなくなっている悲劇のヒロインを助けに来た救いのヒーローのような彼が……本当に救いのように見えてしまう。
「それ以外に誰がいるんだよ」
そう言って有栖川蒼は、また笑ってみせた。
さすがに弾けるような明るい笑みではないけれど、女子を魅了するには十分な破壊力ある笑みが私を襲う。
「なんで高校くらいになると、クラスメイトの顔が覚えられなくなるんだろうな」
「興味がなくなるから」
「へえ」
「他人に興味がなくなるから、顔も名前も覚えようとしないんだと思う」
その構図がなんだか面白い気もするけれど、私はその面白いに対して笑うのを拒んだ。
有栖川蒼の爽やかな笑顔に、絶対負けてしまう自信があった。
幼い頃の桝谷莉雨は世間を魅了するだけの笑顔を作ることができたけど、今の桝谷莉雨は綺麗に笑うことすらできない。
「じっくりと話をしたいところだが、そろそろ時間だな」
「何が?」
高校を卒業したら、自分のことを知らない人たちがいる世界に行こうと思った。
演技することもなく、自分を偽る必要もない、ありのままの自分でいられる世界を探しに行こうと思った。
「ほんの少しだけ、時間をくれないか」
でも、相当な勇気を出さないと、願いは叶わないと知った。
膨らむに膨らんだ期待は、見事に裏切られる。
それが現実。
それが現実だって、私は私に何度も何度も言い聞かせる。
「ねえ! 屋上って、生徒は立ち入り禁止のはず……」
「許可なら、もらってる」
屋上に繋がるための鍵を見せびらかしながら、有栖川蒼は私を案内する役割を担う。
人生で初めて、高校の屋上と呼ばれている場所に足を運ぶ。
「っ……」
私が好きだと思った、憂鬱な印象を与えるくらい真っ黒だった雲は一瞬にして姿を消してしまった。
定番的な表現かもしれないけど、眩い光が屋上全体を包み込んだ。
目も開けていられないほどの強い光は、私が好きだと思った曇り空を奪っていった。
「やっぱり晴れたな」
そして、光が収まってきたんだなって思う頃に目を開けた。
すると、そこには私が大嫌いで大嫌いで仕方のない青空が広がっていた。
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