第5話「ねえ、私はこの世界に存在する人ですか?(5)」

「…………」


 言葉を失うって、こういうときに使うんだなって思った。

 高校の図書室に籠っていたはずの自分は今、まるで大嫌いな青空に包み込まれているかのように視界の開けた場所にいる。

 あれだけ大量の本に囲まれていたはずの自分は、なぜか外の空間に放り出されている。


「……なんで、こんなに晴れちゃうの」


 やっと出てきた言葉は、そんなもの。

 戸惑うとか、そんな日本後では表現しきれない感情や思考が自分を襲ってくる。

 だけど、それを表現するための術を私は持たない。

 ただただ、図書室ではない場所に自分がいるということに驚きすぎて、何も言葉が出てこない。

 そんな私を嘲笑うかのように、空の青を一層濃くしてやろうと張り切る太陽。

 そんな太陽が辺り一面どころか、世界全体を照らすように輝き出すことに唇を噛む。


「眩しすぎるんだけど……」


 太陽の熱が、肌を突きさすように痛かった。

 そして、その熱を感じることで、自分と太陽との距離が近いということに気づかされた。

 見上げれば、すぐそこに。

 もうすぐ太陽が落ちてくるんじゃないかって場所に、太陽が存在している。

 それと同時に、大嫌いな青い空が近くにあることにも気づかされる。


(高校の屋上って、こんな場所だったんだ……)


 空の深い青が、こんなにも綺麗に見えるなんて気のせいだって思いたい。

 青い空が美しいと感じてしまう自分がいるなんて、嘘だって思いたい。

 人間は一瞬にして、嫌いなものを好きになったりはしない。

 目を奪われるくらいの素晴らしい空に出会ったからって、空を好きになんてなるわけがない。


「この場所、気に入ったか?」


 有栖川蒼ありすがわあおの声は耳に入ってくるのに、肝心の有栖川蒼の姿は見当たらない。


「有栖川蒼……?」


 声が聞こえるのに、有栖川蒼はいない。

 図書室での出来事を思い出す。

 声が聞こえるのに、声の主を視界に入れることができない理由はただ一つ。

 有栖川蒼が、私の後ろに立っているから。


「ありがとな、桝谷ますや


 訳の分からないお礼の言葉を受けて後ろを振り返ると、シャッター音が私を襲撃する。

 懐かしくて、泣きたくなりそうな、あの音と久しぶりに再会する。


「ちょっ……」


 真夏の空を思い起こすような、濃い青色の空。

 空の色と重なり合うわけがないのに、靡く互いの髪すら愛おしさを感じてしまうのはなぜか。


「肖像権の侵害!」


 高校入学のときは、それはもう新鮮なものに思えた制服も、時間の経過とともに新鮮さなんてものは劣化していく。

 見慣れてしまって、今では飽き飽きしてしまった制服を着ている有栖川蒼ありすがわあお

 そんな彼から、私はカメラを強奪するために動き出す。


「別に、誰も桝谷ますやを撮影したとは言ってないけど」

「あ……」

「随分と自意識過剰だな」


 そう言って、有栖川蒼は私のことを馬鹿にしたように笑う。

 確かに有栖川蒼の言うことももっともで、有栖川蒼が撮影したものがなんだったのか。

 私は有栖川蒼からカメラを奪わない限り、答えを知ることができない。


「……嘘、カメラで撮ったのは桝谷だよ」


 有栖川蒼が言っていることは、実際めちゃくちゃだと思う。

 私のことをからかっておきながら、私のことは拒んだりしない。

 ただ彼は楽しそうに笑いながら、手元にあるカメラを大切に覗き込む。


「ねえ、返し……」

「桝谷……の名前は、確か莉雨りうだったよな?」


 有栖川蒼の言葉を、無言で肯定する。

 別に声を出して『そうだよ』って言っても良かったけど、そもそも有栖川蒼が一クラスメイトでしかない私の名前を憶えていたことに驚いてしまった。

 びっくりしすぎて声を出せなかったなんて、多分一生言い出せない。


「ずっと撮ってみたかったんだ、莉雨りうの写真」

「なんでいきなり、名前で呼ぶ……」

「俺のことも名前でいいよ」


 恥ずかしかった。

 ただ単純に、恥ずかしかった。

 自分の名前を呼んでもらうってことを、ただただ恥ずかしいと思った。


「やっぱ、莉雨と屋上……最高に映える」


 繰り返される自分の名前。

 自分の名前を呼ばれるって、こんなに恥ずかしいものだったのか。

 自分のことを名前で呼ばれるのなんて、別に珍しいことでもない。

 でも、近しい人以外が私の名前を呼んでくれたのは随分と久しぶりだった。


『莉雨ちゃん、良かったよ』

『莉雨ちゃん、お疲れ様』


 昔は知らない人たちに、よく名前を呼ばれた。

 正確には一緒に仕事はして名前は知っているけど、心の中では何を考えているか分からない大人たちによく名前を呼んでもらった。

 そんな日々が当たり前で、それが私の日常だった。


「っ、あ、その……」


 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しすぎる。

 でも、よりにもよって有栖川蒼ありすがわあおに名前を呼ばれるなんて悔しすぎる。


「俺の名前、呼んでみる?」


 有栖川蒼の表情から、笑顔が消えた。

 そして、カメラに向いていたはずの視線は私に向けられる。

 有栖川蒼の視線を、私は独占している。


「……っ、そんなの卑怯」


 これじゃあ、意地でも彼のことを名前で呼ばなければいけないような気がしてくる。

 わざわざ名前を呼ばせる状況を作り上げるなんて、なんて根性が悪いんだと思ってしまう。


「蒼」

「っ」


 道を塞がれてしまっては、もう有栖川蒼ありすがわあおに縋ることしかできなくなる。

 私の中の有栖川蒼が、有栖川蒼でなくなる。

 私が、過去の有栖川蒼という存在を消し去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る