第2話「ねえ、私はこの世界に存在する人ですか?(2)」
「次のところは……
自分の名前が呼ばれた。
「あー……えっと……」
「分からない?」
「あー、あのー、難しすぎて……」
「ここの文法は一年のときに習っているはずよ」
私は、授業が分からないフリをしている。
ただ、それだけのこと。
「じゃあ、ここで復習ね」
教師が黒板の方を向いたのを見計らって、私は勝手に着席した。
その行為を咎める人間はここにいないのだから、さっさと座って心を落ち着かせたかった。
私はもう、勉強ができませんって芝居をしなくていいんだと安堵した。
(これでいい……)
クラスの中で一際目立つ、有栖川蒼。
だけど、本当の意味では彼は目立ってもなんともなくて、正しくは影が薄いというのかもしれない。
私が勝手に、彼を目立つ存在へと仕立て上げているだけなのかもしれない。
「…………っ……」
私は、中学時代に有栖川蒼と同じポジションを経験している。
私の場合は一人が好きだと言ったわけでもなんでもなく、気づけば周囲から人がいなくなっていたという典型的なパターンに陥っていた。
(……落ち着け、ここはもう中学じゃない……)
自分がクラス中から無視をされていたのか、一人が好きだと一方的に思われて声をかけてもらえなかったのか。
真相というものは分からない。
こればっかりは、中学時代に友達というものがいなかった私にはどうしようもない。
「……はぁ」
こっそりと、誰にも聞こえない程度に深呼吸。
もう、独りぼっちの生活は送らない。
もう、あんな日々に戻らない。
もう、二度とあんな日々を迎えたくない。
(一人になるのが嫌とか……有栖川に言ったら、笑われちゃう……)
一人。
カッコ悪い。
『
『一人が好きなんだよ』
独り。
みっともない。
『これで全員……っと、桝谷さんがいたんだった』
『どこかのグループ、桝谷さん入れてあげてー』
独り……。
誰がいつ、一人でいることを好んだ?
誰がいつ、私を一人にしてくれって頼んだ?
(あれは……いじめだったのかな……?)
いじめの定義、とは
別に、暴力的な行為に悩まされたことはない。
パシリをやらされたこともなければ、特別な嫌がらせを受けたこともない。
害という害は何もなく、私の中学時代にはただ言葉を交わす相手がいなかったというだけの話。
(いじめの、定義……)
高校に入学したところで、人生いきなり変わるものでもなかった。
そこには当たり前のように中学生時代の私を知っている人がいて、私はまた暗くて陰湿な中学時代に戻ってしまうんだと不安になった。
「桝谷さん、訳せそう?」
「あ、えっと……」
だから、私は自分を偽ろうと思った。
中学時代に抱かれた誤解を、解きにいこうと思った。
「そもそも最初の単語の意味が分からなくて……」
私は、みんなと同じだってフリをした。
できないフリをする。
不完全なフリをする。
本当は出来ることも、出来ないって言う。
みんなが出来ないことは、私も出来ない。
みんなが出来ることは、私も出来る。
「ちゃんと辞書で調べた?」
「調べたんですけど、最初に載ってた意味だと変な訳になるなーと思って……」
みんなの考えには賛同する。
みんなの意見には従う。
そうして私は、中学時代の自分から脱した。
そうして私は、みんなの輪の中に入ることに成功した。
「確かに辞書の最初に載っている意味も大切なんだけど、文脈に合った意味を選んでくるのも大事な勉強」
「はい……」
中学時代の知り合いからは、こんなことを言ってもらえた。
なんだ、別に変わり者じゃなかったんだね。
私たちと同じだったんだ。
「じゃあ、この単語の意味だけど……笠井さんは、どの意味が合っていると思う?」
ああ、成功したって思った。
幼い頃の演技のレッスンや、天才子役として成功した日々は無駄じゃなかった。
私の芝居は大成功だって思った。
(だけど……)
今の生活が楽しいかって言われたら、楽しくないと答える自分が存在する。
私は、何を楽しいと感じている?
私は、何を面白いと感じている?
私は高校に通っていて、何かしら有意義に感じるものはあるの?
有栖川蒼に抱いた疑問は、すべて自分へと返ってくる。
そして私は、その質問に対する答えを見つけることができていない。
「怠かったー……最高に怠かった……」
「なんで授業が七限まであるのー……」
「さっさと帰ろ」
率先して授業に参加しない限り、一時間の中で教師に当てられるのなんて精々一回程度。
稀に教師のお気に入りの生徒だけは何回も当てられてしまうこともあるけれど、私はそこまであの英語教師には好かれていない。
一度の指名のあと、私は再び教師に指名されることもなく授業を聞き流す。
そんな退屈な時間をやり過ごした。
「あー、私、まだ部活の退部届出してないから、今日は部活行くね」
退屈な時間をやり過ごした後に待っているのは、友人と接してくれている彼女たちの機嫌取り。
そんな機嫌取りすら面倒な私は、行きたくもない部活に行ってきます宣言をする。
「読書部だっけ?」
「サボるには、もってこいの部活でしょ」
そんなことを適当に言っておけば、友人として接してくれているAちゃんBちゃんは笑ってやり過ごしてくれる。
そういう人との付き合い方を学んでしまった自分を腐っているとも思うけれど、そういう付き合い方ができるようになった自分にも称賛というものを送ってみたい。
「じゃーね」
「また明日」
中学時代の私へ。
私、今は独りぼっちじゃないよって伝えたい。
(……やっと行った)
名前はなんだったっけって思い出すのも苦労するAちゃんBちゃんと別れ、私は入学してから一日も休むことなく通い詰めている図書室の方へと足を進める。
(明日からは、どんな言い訳で誘いを断ろうか……)
読書部があるのは本当で、読書部に自分の籍があるのも本当。
だけど、読書部自体の活動はないといっても過言ではない。
毎日図書室に通ったところで、そこに集まるのは読書部の部員ではなく極僅かな勉強好きの生徒たち。
(……やる気のない学校)
そんな高校を選択したのは、ほかでもない自分だけど。
もっと上のレベルの、自分の学力に合った高校を選ぶということもできたけど……。
『莉雨の好きにしていいんだぞ』
中学のときの進路相談で、両親は私に自由を与えてくれた。
子役を引退したときと同じで、両親は私に選択する権利をくれた。
『世の中、勉強がすべてじゃないわ』
両親に対して、何も言えなかった。
相談に乗ってほしいって、言うことができなかった。
いつだって両親の中には、最終的には芸能界に逃げ込めばいいんだからっていう声が存在するから。
『莉雨には、大好きなお芝居があるんだから』
これは、両親が私に与えてくれた優しさ。
両親が、私に気を遣ってくれている。
私には、戻る場所がある。
芸能界っていう輝かしい世界に私が戻ることを、お母さんもお父さんも待っている。
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