第8話 寝不足は勉強の大敵!

「ふわぁ」


 寺子屋で勉強中だというのに、私は大きなあくびをしてしまった。


「お嬢様……」


 隣の席にいる弥吉がたしなめてくるが、仕方ない。昨日は白浪小僧を探しに行って夜遅くなってしまったから眠いに決まっている。

 さすがに真夜中だったから、私が家に帰ったときにも誰も起きていなかった。おかげで、誰にも気付かれずに部屋に帰ることが出来た。よかったよかった。


「ごめんごめん。ちょっと昨日眠れなくて」


 えへへ、と笑って小声で私は言う。


「なにをしていたんですか?」


 ひそひそと弥吉も私に近付いて耳打ちしてくる。


「うーん」


 まさか、白浪小僧を探しに夜の町に出ていて本人に会ったとか言えない。そんなことをしたら、夜中に抜け出していたことがバレてしまう。おとっつぁんにもさすがに怒られるに違いない。もしかしたら、外出禁止にされてしまうかもしれない。それは困る。

 本当はめちゃくちゃ誰かに話したい。朝、起こしてくれた雪ちゃんにも言いたくてたまらなかったけれど我慢した。私、偉い。

 白浪小僧に本当に会ったなんて大ニュースだ。私の他に白浪小僧に会った人がいるなんて聞いたことが無い。と、いうことは私が江戸中で唯一白浪小僧に会った人間だということになる。


「くうううう」


 思わずじたばたしてしまう。これがじっとしていられようか。


「大丈夫ですか、お嬢様」

「あ、う、うん」


 私は居住まいを正す。こんなところでじたばたしてたら変な人だ。昨日は、うるさくしない程度に自分の部屋に戻ってから床ローリングしまくりだった。


「もしかして、お腹でも痛いのでは?」

「違う違う、大丈夫だよ」


 弥吉に心配されてしまった。


「大丈夫だから、弥吉は自分の勉強に集中しなよ」

「は、はい。お嬢様がそうおっしゃるのであれば」


 まだちょっと心配そうな顔をして私のことをうかがいながら、弥吉は自分の机へと向き直っている。

 いけないいけない。真面目に勉強する弥吉の邪魔をするところだった。

 人に言っておいて、私自身はなかなか勉強に集中できない。

 ふう、と私は一旦息を吐く。まずは落ち着こう。

 誰かに話したくて口がむずむずするし、興奮がまだ冷めやらなくて全然落ち着かない。


「んー」


 目の前の教科書を読もうとするのだけれど、文字が文章として頭に入ってこない。

 と、思っていたら、


「お美津さん、教科書が逆さまですよ」

「あ」


 先生の手がにゅっと伸びてきて、私の手から教科書を取る。そして、ひっくり返して元の手の位置に戻してくれた。

 逆さまでは頭に入ってこないはずだ。それすら気付かなかった。

 ちなみに江戸時代には教科書とは言わなかったらしいけど、これも時代劇補正でわかりやすくなっている。本当は往来物おうらいものといっていたはずだ。わかりやすくてありがたい。


「どうしたんです? ぼんやりして」

「あー、えっと……」


 白浪小僧のことばかり考えていたせいで、いい感じの言い訳も思いつかない。


「なんだか眠たそうですねぇ」

「あは、昨日ちょっと夜更かししちゃって。……ふ、ふわぁ」


 言い訳しながら、あくびまで出てしまった。


「……お嬢様」


 さすがに弥吉もあきれている。

 先生もあきれるかと思いきや、


「ふぁ」


 うっかり私のあくびがうつってしまったようだ。


「すみません。私まで」


 こほん、と先生が咳払いしている。


「いえ、先生でもあくびするんですね」


 私はちょっと親近感がわいて嬉しくなってしまう。


「先生も夜更かし、してたんですか?」

「そうですね。新しい書物を読んでいたら止まらなくなってしまって。そのせいか、目もしょぼしょぼするんですよ」


 そう言って、先生は目をパチパチさせる。


「先生らしいですね」

「あなたたちに教える分、知識は多い方がいいですから」

「ほわー」


 思わず感嘆の声を上げてしまう。

 さすが先生だ。私みたいに時代劇の世界楽しい! しか思っていないのとは違う。


「単純に楽しかったから、というのもありますけどね。読み始めると止まらなくなってしまうんですよ」

「あ、それはわかります!」


 私の場合、現代でやっていた漫画とかゲームの話だけど。


「そうですか? お美津さんがそんなに勉強熱心なのは嬉しいですね」

「あ、私の場合は絵双紙えぞうしとか瓦版ですけどね」


 絵双紙は、絵が多い絵本みたいなものだ。だけど、江戸では特に子ども向けばかりというわけではなくて、大人向けでも絵双紙はある。絵を見ているだけでも結構楽しい。


「それは、お美津さんらしいですね」

「たえちゃんも一緒に読んでたりするんですよ。あ、たえちゃんっていうのは弥吉の妹なんですけど」

「それはそれは。奉公人に字を教えたりもしているんですね、お美津さんは」

「あー、そんなつもりでは……」


 単純に一緒に絵双紙を読んでいるだけのことだ。弥吉とたえちゃんには親がいない。私が子どもの頃に親に絵本を読んでもらうのが好きだったからそうしてもらっているだけというか。


「たえも喜んでいるのでありがたいです」

「そうかな」

「お美津さんは偉いですね」


 改めて弥吉にも言われて先生にも褒められて、なんだか照れる。

 本当にただ私も楽しく読んでいるだけなのに褒められるなんて。


「では、教科書もちゃんと読みましょうね」

「は、はい」


 急に勉強のことを振られて、私は言葉に詰まった。

 ぐ、楽しい絵双紙は読むくせに教科書は読まないなんて思われてしまったらしい。本当なので仕方ないが。


「がんばります」

「よろしい。がんばってくださいね」


 そう言って、先生は他の子のところへ行こうとする。いつもそうやって全員の席を回っている。

 と、そのとき、


「できた!」


 私の前の席の子が、習字がうまく書けたのが嬉しかったのか半紙を持って立ち上がった。

 そして、


「うわっ!」


 机に脚を引っかけてバランスを崩す。


「わっ」


 慌てて私も立ち上がる。


「おっと」


 その子の席に向かっていた先生の方が早かった。先生がその子を支えようとする。


「おお」

「先生、ありがとう」


 先生がその子を受け止めたのはいいのだが、


「ぐっ」

「! 先生、大丈夫?」

「先生!?」


 私も立ち上がって駆け寄る。

 子どもを受け止めたはずの先生の方が苦しそうに顔をゆがめてよろけてしまっている。


「大丈夫です。すみません」

「先生、どこかぶつけた? 頭、ぶつかっちゃったかな」

「少しぶつけたくらいなので大丈夫ですよ」


 先生はいつものように微笑もうとしているようだが、その顔に汗が浮かんでいる。


「先生、どうしたんですか? 見せてください」

「いえ、大丈夫ですから」

「僕のせいで……」


 子どもがしゅん、と頭を下げる。


「あなたのせいではありませんよ」

「え?」

「昨日、部屋で本の片付けをしていたら運悪く崩れてしまいましてね。その下敷きになってしまったんですよ」


 はは、と先生が苦笑する。


「そのときに打ってしまったんです」

「うわぁ」


 それは痛そうだ。

 というか、なんだかすごく先生のイメージ通りで想像できる。本が大好きで、部屋の中に本がたくさん積み上がっているのだろう。


「まさか、先生その中に囲まれて寝てるんじゃ……」

「はい」

「それは、危なそうですね……」

「だから片付けていたんです」

「あ、それで途中から読んでしまっていたんですね」

「ああ、はい」


 さっき本を読んでいて眠れなくなったと言っていた。すごくわかる。片付けているときに限って昔読んでいた懐かしい漫画が出てきて読みふけってしまう。


「あ、じゃあ、その手もそのときに擦りむいちゃったんですか?」

「!」


 私は先生の手に傷があることに気付いた。

 先生は一瞬、驚いたように手を引っ込める。それから、いつものように穏やかに言った。


「ええ、そうなんです」

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