第2話 江戸の町は今日も平和
「あ! あっちで瓦版出てるよ!」
「待て待て! 急に走るな!」
「お嬢様! 転んだら危ないですよ!」
走り出そうとする私を二人がかりで止められる。だけど、私は二人をさっとかわした。だって、この先には瓦版売りがいる。
しかも、
「白浪小僧のことが書いてあるよ~。買った買ったー!」
「ほら! 白浪小僧って言ってるよ。読みたい! 買わなきゃ!」
白浪小僧と言われればじっとしてなんかいられない。道行く人も瓦版売りの口上に引かれている。さっき白浪小僧のお芝居を観ていたばかりだ。血が騒いでも仕方ない。
私も、と勇んでいこうとするが、
「ぶっ」
誰かにぶつかってしまった。しかも、跳ね返されて転んでしまう。
「ごめんなさい」
慌てすぎて前が見えていなかったみたいだ。まずは謝って顔を上げようとすると、
「あら、美津ちゃんじゃない」
聞き覚えのある声がした。
「豊、ととと、トヨさん!」
危なかった。思わず、本当の名前を呼んでしまうところだった。男の姿のときは豊次さんだが、今は髪結いのオネエさんの格好をしているからトヨさんだ。
トヨさんは岡っ引きもしていて、情報収集のために廻り髪結いとして色々な店に入り込んでいる。ちなみに、トヨさんの正体は私しか知らない。
「大丈夫?」
転んで尻餅をついている私にトヨさんが手を差し出してくる。
「はい、ありがとうございます」
私はトヨさんの手を掴んで立ち上がった。そして、お尻についた土を払う。
「まったく、いつも危なっかしいわねぇ」
「えへへ」
私が照れ隠しに笑っていると、
「おい、美津! 大丈夫かよ!」
「お嬢様!」
二人が追いついてきた。
「大丈夫だよ。ちょっと転んだだけ」
「ちょっと転んだだけって、まったくお前は……」
「お嬢様、着物は……、破れたりはしていないようですね。そんなことになったら旦那様になんと言ったらいいか」
弥吉は段々、手代の政七さんに言うことが似てきている気がする。大黒屋の奉公人として成長してきているということかもしれない。
「あら、二人もお供を連れてどこかに行った帰りかしら?」
トヨさんが二人を見る。
ぺこりと弥吉がトヨさんに頭を下げている。トヨさんはうちの店にも来てくれているので顔見知りだ。弥吉はトヨさんと豊次さんが同一人物なことに気付いていない。
清太郎はもしかしてこの姿では初対面なのではないだろうか。が、男の姿の豊次さんとは顔を合わせている。さすがにバレてしまうのではないだろうかと不安になる。
トヨさんは清太郎のことを向こうの大黒屋の若旦那だと知っているはずだが、知らないふりをしているようだ。
「誰なんだ? その人」
清太郎が私に聞いてくる。
豊次さんだとバレるのではないかと思ったのは杞憂だったようだ。すぐわかりそうな気もするが、なぜかわからないというのはお話の世界ではよくあるアレだろうか。
「えっとね、うちに来てもらってる廻り髪結いのトヨさん。私の髪もやってもらってるんだよ」
「へえ。……どうも」
清太郎が頭を下げている。本当にわかっていないようだ。なぜか清太郎は豊次さんを敵視しているようだから、この反応なら気付いていないのは間違いない。
「どうもー」
トヨさんもにっこりと手を振る。平和でよい。
「あ、そうだ。あのね、今、白浪小僧のお芝居を観に行ってたんですよ」
そういえばトヨさんに聞かれていたんだった。どこに行っていたのか、って。
「あら、今大人気だものね。よく木戸札が取れたわねえ」
「へへ、それは俺が」
「そうそう。この清太郎が取ってくれたんですよ。あ、私の幼なじみです。うちののれん分け前の大黒屋の若旦那をやってます」
紹介しないのもおかしいので、一応付け足しておく。
「あ、ああ、そう。幼なじみ、な。というか、若旦那をやってるってなんだよ」
なぜか清太郎がぶつぶつと呟くように私の言葉を復唱する。
もしや、最近になってまた仲良くなっただけの私と幼なじみとか言われたくなかっただろうか。私の言い回しがおかしかっただろうか。
「そうなの? すごいわね。あの木戸札を取れるなんて。お供なんて勘違いしてごめんなさいね」
「へへ」
トヨさんはにっこりと清太郎に笑いかけている。おだてられてか、清太郎も照れたように笑っている。機嫌を直してくれていよかった。やっぱり美人におだてられるのは気分がいいようだ。
が、その清太郎が私にそっと耳打ちしてきた。
「この人、男、だよな?」
一瞬、豊次さんだとバレたのかと思ったが、そっちだった。
「あ、うん。男の人だけど、綺麗なオネエさんだよ」
バレなくてよかったよかったという気持ちで、うんうんと私は頷く。
「あら? どうしたの? あまりに私が綺麗で見惚れちゃったかしら?」
ふふ、とトヨさんが微笑む。
「いや、そんなんじゃ……!」
清太郎が、ムキになっているように言い返している。
正直、女の私が見ても綺麗だと思うからそんなにムキにならなくてもいいのにと思ってしまう。男の清太郎が見惚れてしまっても仕方がない。
しかし、この反応。もしや、本気で惚れてしまったとか……!?
なんて思っていたら、
「じゃ、私は仕事があるからそろそろ行くわね」
トヨさんが言った。
「あ、はーい。お仕事がんばってくださいね」
ちょっと拍子抜けだが、私はぱたぱたとトヨさんに手を振る。弥吉は再びぺこりと頭を下げている。
きっとまた情報収集のための潜入のお仕事があるに違いない。そんな大事なことを邪魔したら申し訳ない。
「よし、行こっか」
「お、おう」
答えながら、清太郎はまだトヨさんの後ろ姿を見ている。まさか、本当に……。
けれど、清太郎は言った。
「美津、あいつに髪を触らせてるのか?」
「そうだよ。だって、すごく上手いんだよ。ほら」
私は自分の髪を指さす。今回もトヨさんの自信作だ。というか、トヨさんに髪を結ってもらうことに慣れすぎて、正直未だ自分でやったことがない。
「……確かに、そうだな」
清太郎が私の島田髷をまじまじと見ている。
「その……、いつも……」
そして、何か言いかけた途端、
「お嬢様の髪はいつもお綺麗です!」
ずいっと間に弥吉が入ってきた。
「あっ、お前!」
言いたいことを遮られたのが嫌だったのか、清太郎が弥吉をにらみ付けている。
「トヨさんの腕がいいからですね」
弥吉は私に向かってにこにこと笑っている。
「そうだね。それと、ありがとう。本当に、トヨさんはすごいよね」
「はい!」
「弥吉の髪もいつもトヨさんにやってもらってるんだもんね」
「はい! 妹のたえもいつも髪を揃えてもらって喜んでいます!」
「たえちゃんもいつも可愛いもんね」
私が言うと嬉しそうに弥吉が頷く。
「でもよ」
水を差すように不機嫌そうに清太郎が言った。
「あいつ、男だろ? 髪、触られるの嫌じゃないのか?」
「へ?」
私は目をぱちくりさせた。
「えっと、だって、オネエさんだよ」
「そりゃ、オネエさんだけどよ」
なんだか清太郎は不機嫌そうだ。
「ほら、髪は女の命だとか言うじゃねぇか。それに、男に髪なんか触られてると、変なことされたりとか、するんじゃねぇかと……」
「心配してくれてるの?」
「べ、別にそんなことっ」
ぷいっと清太郎がそっぽを向く。どうやら本当に心配してくれていたらしい。
私はあははっと笑ってしまった。
「大丈夫だよ。本当にオネエさんだから心配ないよ。話も面白いしいい人なんだよ」
「それならいいけどよ」
というか、トヨさんのときは完全に女性みたいなものだと思っていたから、そんなことを考えたことがなかった。現代だと普通に男性美容師に切ってもらうこともあるし。
「あ、そういえば、さっきはなに言おうとしたの?」
いつも、の続きが遮られてしまってわからなかった。
「ごめんね。なんだった?」
だから、ちゃんと聞こうとしたのだけれど、
「なんでもねぇっ!」
なぜだか清太郎はへそを曲げてしまった。
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