第30話 弥吉
父ちゃんと母ちゃんは、田舎から江戸に出てくると野盗に襲われて死んでしまった。生き残ったおいらと妹のたえは、江戸にたどり着ければなんとかなるのではないかと、必死に歩いた。
だけど、なんとかなるはずなんかなかった。江戸に入っても、誰も助けてなんかくれなかった。父ちゃんと母ちゃんにもツテなんかなかったんだと思う。江戸にさえ行けば、きっとなんとかなると言っていた。農村の貧しい暮らしから抜け出せるのだと。
おいらも希望を持っていた。父ちゃんと母ちゃんが、そうだったから。
橋の下で、おいらはたえと二人で夜を過ごした。残飯をあさって、お腹を満たした。
盗みは、それでもしたくなかった。父ちゃんと母ちゃんが泣く気がしたから。
頼る人もなくて、おらいたちは日に日に弱っていた。あとどれくらい生きられるのかわからないと思った。
たえだけはなんとかしてやりたいと思った。だけど、どうしてやればいいのか、わからなかった。
時間だけが過ぎていこうとしていたそのとき、声を掛けてくれた男がいた。
太陽がその男の後ろにあって、顔が見えなかった。
「うちで奉公しないか? 腹一杯飯だって食わせてやる」
おいらはすぐに頷いた。
こんな子どもでも働かせてくれるところがあるのかと、飯を食わせてくれるところがあるのかと、その男が観音様かと思った。
後光が差しているようにすら見えた。
だけど……、それは間違いだった。
痩せていたおいらに飯は食わせてくれて、湯屋に連れて行かれて綺麗にされた。最初はすごくありがたいと思った。だけど、腹一杯というのは嘘だった。おいらもたえも、ほんの少しの食事しかもらえなかった。腹一杯というのは嘘だったのかと言ってみたら、まだ何も働いていないのに生意気だと言われた。
そういうものかと、思った。何も食えなかった日々に比べればマシだったからだ。
それでも、それなりに身なりが整ったところで、妹のたえを人質に取られてもう一つの大黒屋というところに行けと言われた。
そこで信頼されるように働いて、土蔵の鍵を見つけてそこにご禁制の品である鉄砲を忍ばせるのだと言われた。
「あの店は悪い店だ。だが、証拠が見つかっていないだけだ。お前はその証拠になるものを荷の中に忍ばせればそれでいいんだ」
最初はそれが本当なのかと思った。
「うまくいけば、妹は返してやる」
だけど、変だとも思った。
それなら、どうしておいらなんかにそんなことをさせるんだろう。
悪いことをしている店なら、ちゃんと調べれば証拠なんて出てくるんじゃないだろうか。
おいらの妹を人質に取るなんて変だ。そんなことをしなくても、本当にそれが正しいことならおいらは自分からやるのに。恩だってあったのに。
口答えなんか出来なかった。
おいらがやらないと言ったら、たえがどうなるかわからない。
そんなの嫌だ。
たえは、たった一人のおいらの妹だ。
◇ ◇ ◇
そうして、おいらはのれん分けした方の大黒屋で丁稚として奉公することになった。
その店の旦那様が、最初は怖かった。悪い店だと聞かされていたら、だけじゃなくて、最初に見たときから怖そうだと思った。
早く言われたことをやってしまおうと、それだけを考えた。おいらが言われたことをやり遂げれば、たえはきっと返してもらえる。
びくびくしながらおいらは大黒屋で過ごした。夜は土蔵の鍵を探した。奉公人部屋は他の奉公人と一緒に寝ていたので、抜け出すのはみんなが寝静まってからしか出来なかった。どこに行くんだと声を掛けられたりして、なかなか進まなかった。
時々、本家の大黒屋には自分が今奉公している大黒屋がどんな状態なのか、おいらが言われたことは進んでいるのか、報告に行かなければいけなかった。店に直接来てはいけないと言われていて、報告するために会うのは大体船宿だった。
何も出来ないと言うと、ひどく叱られた。おいらを叱るのはいつも番頭さんだった。旦那様はただ見ているだけだった。その目線すらおいらには怖かった。
たえには一度も会わせてもらえなかった。無事かどうかもわからなかった。それでも、言われたことをするしかなかった。
こっちでは本家とは違って、腹一杯食わせてもらえた。こんなに食っていいのか、不安になった。たえはちゃんと食わせてもらっているだろうか。そればかり思った。
誰かに話しかけられるだけで、おいらが何をしようとしているか本当はわかっているぞと言われるようで、何もかもバレてしまいそうで、怖かった。
何をするにも周りをうかがっていた。
特にお嬢様が怖かった。見下すような目で、いつもおいらを見ていた。少しでもおいらが粗相をすると容赦なく罵った。
でもある日、お嬢様がおかしくなった。頭を打ったのだと、みんなが噂していた。大丈夫なのだろうかと、ささやきあっていた。
おいらは、これ以上ひどくならないことを願いながらその様子を遠巻きに見ていた。
あまり関わりたくないと、そう思ってなるべくお嬢様の視界に入らないようにとしていたのに、
「弥吉」
お嬢様がおいらの名前を呼んだ。
おいらの名前にすら興味がないと思っていたのに、名前を聞かれた。
掃除をしていたら、突然手伝うなんて言われた。
何か屋台で美味しいものでも食べてくるようにと、お小遣いを渡された。
おいらが怖がっていると、いつもかばうように前に立ってくれた。
おいらがどう見たって怪しい行動をしているのを見ても、他の誰かが見たら大黒屋を裏切るような行動をしていると絶対思うようなことをしていても、疑うこともしなかった。
おいらがそんなことをするはずがないと、本気で信じてくれていた。
疑うことを知らないお嬢様の顔を見ていると、いつも罪悪感で胸が潰れそうだった。
お嬢様がおいらのことを気に掛けてくれるようになってから、おいらはもう一度考えてみた。
この店は本当に悪いことをしているのか、と。
どう考えたって違った。旦那様も最初は悪い人だと思っていたけど、違った。
おいらに腹一杯、飯を食わせてくれる。
あたたかい寝床を与えてくれる。
夜だって、誰にも見張られてなんかいなかった。奉公人部屋はいつも出入りできるようになっていた。おいらが出て行こうとするときに声を掛けてくるのは、心配しているからだ。夜に一人でどこに行くのか、と。
悪いことをしようとしているのはおいらの方だ。
おいらによくしてくれているこの店の人たちを、お嬢様を、おいらは裏切ろうとしている。
おいらのことを疑いもしないお嬢様の笑顔を思い出すと、逃げ出したくなった。
それでも、やらなければならなかった。
たえを助けるために、おいらは……。
◇ ◇ ◇
「大丈夫? お兄ちゃん」
うつむいていたおいらの顔を、たえが寝かされている布団の中からのぞきこんでいた。
「ああ、大丈夫だ」
おいらはたえに向かって微笑んで見せた。自分の方が弱っている状態なのに、たえはおいらのことを心配してくれている。
「まずは自分の体を心配してくれよ」
「うん」
たえは笑う。まだその笑顔が弱々しい。
監禁同然にされていたときに、かなり弱っていたみたいだ。その間も、おいらはこの店でぬくぬくと暮らしていた。
「大丈夫だよ。前よりは動けるようになってきたんだから。ほら」
「こ、こら」
たえが布団から起き上がろうとしたので、慌てて止めた。
「もー、大丈夫だって言ってるのに」
「もう少し寝てないとダメだ!」
つい声を荒げてしまう。
助け出されたときのたえの姿を考えると仕方ない。一応、最低限の食事は与えられていたと言っているが、かなり痩せていた。おいらを見る目も虚ろだった。
「ねえ、お兄ちゃん」
たえがどこか不安そうにおいらを呼んだ。
「どうした? 兄ちゃんはちゃんとここにいるぞ?」
「ここは本当に大丈夫なのかな? 前みたいにひどいこと、されないかな……」
ぽつりと、たえが言った。
「……たえ」
不安になるのも無理はない。ひどいことをされて、急に他人を信用しろなんて虫がいい。
おいらだって最初はそうだった。この店の、誰のことも信用できなかった。
だけど……、
「ここなら安心だ。兄ちゃんが保証する」
たえを安心させるように、おいらは笑ってみせる。
「今だって、こんなに立派な部屋で養生させてくれているだろ? それにたえのことだって面倒見てくれると言ってくれたんだぞ」
奉公人にはもったいないくらいの部屋を、旦那様はたえの養生のために用意してくれた。
「……本当に大丈夫、なのかな」
たえがそれでもまだ不安そうに呟いたとき、
「たえちゃん、大丈夫ー?」
聞き慣れた声がして、襖が開いた。
お嬢様だ。
「心配して見に来ちゃった」
お嬢様がいつものように、花が咲くように笑う。
その笑顔を見て、おいらは思う。
本当に、あのときお嬢様に打ち明けてよかった。番屋に駆け込んでよかった。
この笑顔を守れてよかった。
おいらは間違っていなかった。
「え、ええと……」
たえは、もぞもぞと布団の中で戸惑っている。
今はまだ無理でも、きっとたえもわかってくれると思う。
だけど、心配だ。おいらにだって騙されてしまうようなお嬢様だから。
これからは、おいらがちゃんとついていないと、心配だ。
たえを守りたいと思うのとは違う。お嬢様の笑顔を守りたいと思う、この気持ちはなんだろう。
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