第29話 豊次

 あの娘は何も疑わない。嘘もつかない。

 あの娘の父親のことは誰にも話さないと、俺は言った。だからといって、あんなにぺらぺらと無防備に話すだろうか。

 信じられなかった。

 最初に会ったときから、変わった娘だと思った。

 それがまさか大店のお嬢さんだったなんて驚いた。悪い冗談ではないかと思った。それにしてはくだけすぎている。

 本人に伝えても、あの娘は笑うだけだろう。悪い意味なんかに取らずに、ただ明るく笑うんだろう。

 俺の本当の仕事は岡っ引きだ。それになった経緯は、まあ複雑だ。

 同時に正体を隠して廻り髪結いもしている。理由は簡単だ。情報収集がしやすい。あの格好をしていると、大体は油断してくれる。髪結いには口が軽くなるってもんだ。更に、女の格好をしていると尚更だ。

 女の格好をして女のように話す男に、女は弱い。しかも、自分の話すことに理解を示すふりでもしたらイチコロだ。かなり際どいところまで世間話だと思って話してくれる。少し格好や態度を変えるだけで不思議なものだ。

 廻り髪結い意外にも時々変装もするが、今まで見破られたことはなかった。俺は、その技術には自信があった。自惚れていた。

 だというのに、あまりに簡単に見抜いてくれるもんだから驚いた。

 しかも、これがまた、バレたというのにその理由も勝手に想像していい方に持って行ってくれるときたもんだ。

 更に、俺が豊次であることは黙ってくれると言った。最初は警戒した。強請られる可能性だってあった。岡っ引きであることがバレていないだけまだマシだと思うことにした。

 が、彼女は本当に黙っていた。それも全て善意でだ。感謝を通り越して呆れた。

 彼女は俺のことを信頼して、本当に家の中のことを話してくれた。俺の方からも色々調べて話すと言ったからかもしれない。それがあったとしてもだ。

 彼女は人を信じすぎだ。情報収集しなくてはならないはずの俺が心配になるくらいしゃべるのは、さすがにどうかと思う。

 騙している気分になって(実際そうなのだが)、罪悪感を覚えてしまった。

 こんな気持ちになったのは、正直初めてだった。

 仕事は仕事だ。俺の仕事は、本当に大黒屋が悪事を働いているか調べることだった。そういう話が前から出ていたからだ。噂程度にだが、あまりに頻繁に出るので調べることになったのだ。

 ただ、決定的な証拠がなかった。

 少しでも証拠を集めるために、その娘・美津とはよく話をした。美津と話していると、時々素が出そうになってヒヤヒヤした。美津はきっと何も気付いていないのだと思う。いつも俺と話しているとき、楽しそうに笑っていた。不安なことがあるとすぐに顔に出ていた。

 だが、時々妙に鋭いのも困った。俺があまりにも油断してしまっていたのもあるから、仕方のないことだが。




 ◇ ◇ ◇




 美津の家に手入れが入ることを俺は知らなかった。大黒屋喜兵衛はシロだと俺は踏んでいた。大体、あの娘がいる店が悪事なんか働くとは思えない。もちろん、だからといって調べに手を抜く俺ではないが。

 どうやら本家の大黒屋の番頭が同心にでも密告したようだ。もちろん、袖の下も渡したに違いない。手回しのいいこって。

 あのとき、大黒屋喜兵衛のところの丁稚が駆け込んでこなければどうなっていたかわからない。あの丁稚、自分のことなんかどうなってもいいと言っていた。お嬢様を助けてほしいと、そればかりを訴えていた。

 美津は店の中でも好かれているのだと、あんな状況にもかかわらず微笑ましくなってしまったものだ。

 俺も美津が心配だった。

 あの娘に何かあったら寝覚めが悪い。

 もう会えなくなるのだと想像しただけで、なぜか胸が痛くなった。

 まだ子どもみたいに見えてしまうようなあの娘を、俺はどう思ってるってんだ。

 とにかく、急いで無事を確認したときには安堵した。

 美津も嬉しそうに俺の名前を呼んだ。

 正体がばれるとかばれないとか、そんなもんはどうでもよかった。

 美津の無事が嬉しかった。

 俺はただ、もう誰も失いたくないだけなんだ。




 ◇ ◇ ◇




「く、俺としたことが……。ただ、ちょっと出掛けようと誘うだけじゃねぇか」


 ぶつぶつと呟きながら、俺は大黒屋へと向かっていた。しかし、どうも足が進まない。ガキ相手に何を緊張しているのだと、自分で自分がわからない。


「一応、念をおしておかねぇとな。正体は内緒にしてくれって……。そうだ、それを言いに行くだけなんだ」


 わざわざ非番の日にそこまでしなくてもいいと心の中ではわかっているのだが、自分に言い聞かせるように言ってしまう。念なんか押さなくても、わざわざ言いふらすような娘ではないことはもうわかっている。

 ただ、もう大黒屋へ廻り髪結いとして行く必要はなくなってしまった。こうでもしないと、美津の顔が見られない。だから、誘おうなどと思ってしまったのだ。

 美津のお陰で今回はうまくことが運んだということもある。あの娘から元々話を聞いていなければ、丁稚の話も話半分で聞いてしまっていたかもしれない。もし、俺があの話を信頼していなければ間に合わなくなった可能性もある。思い出すだけで、間に合ってよかったと思う。

 美津は次に会ったら俺にばかり礼を言おうとするだろう。そういう娘だ。

 俺の方も礼を言わなくてはいけないってのに。

 そう、礼を言わなくてはいけない。

 だから、この誘いは話をするために必要なものだ。

 今、両国橋のあたりに面白い見世物が来ていると聞いた。

 きっとあの娘はそういうものが好きだ。聞いただけで目を輝かせるに違いない。その顔が見たい。


「他意は無いぞ……。無い、はずだ」


 誰に言い訳しているんだかわからないまま、俺は今度こそ美津の元に足を急がせた。

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