第2話 顔を上げたら色男

 私は恐る恐る目を開けた。見えたのは、空だった。打ち所が悪くて死んだのだろうか。そして、ここは空の、上?


「私、馬に蹴られて死んだ?」


 思わず呟いた瞬間、周りの喧噪が戻ってくる。がばっと、私は起き上がる。


「私、生きてる!?」


 だとしたら、とんでもないことをしてしまったはずだ。


「大事な大事な撮影の邪魔をして、申し訳ございませんでしたー!」


 私は叫んだ。大好きな上様の撮影を邪魔してしまうなんて、土下座してお詫びしなくてはいけない。

 もはやジャンピング土下座をする勢いで……、てそういえば私は今、着物を着ているのだった。さっき吹っ飛んだせいでもうボロボロだと思うけど。レンタルだから怒られるだろうか。

 いや、今はまず上様に。

 ああ、顔が上げられない。上様になんてお詫びしたらいいのやら。

 なんて、ほぼ土下座状態のうずくまった状態でいたら、


「嬢ちゃん、どうしたぃ。具合でも悪いのかい?」

「ふえ?」


 頭の声から、威勢のいい声が聞こえてきて私は声を上げた。声の出し方や言い回しだけでもわかる。これぞ江戸っ子という感じだ。

 ということは、


「まだ撮影続いてる感じ? 私、邪魔!? まだ邪魔してる!?」

「さつえい? 一体、なんのことでぃ」


 顔を上げた私の目の前には、なんとも粋な青年が首を傾げていた。月代さかやきは青々とし、ヒゲのそり跡もないつややかな肌。清潔感のあるさわやかな着流し姿も眩しい。いかにも時代劇に出てきそうな色男で、思わず見とれてしまう。


「だけど、上様、じゃ、ない?」


 私は呟く。こんな人、さっきは見なかった。と、思う。

 こんな時代劇的なイケメン、絶対に見逃すはずがない。


「上様? 上様はこんなところにはいねぇだろ」


 目の前にいる江戸っ子な色男がからからと笑う。


「あ、あの、えっと。撮影、は?」


 きょろきょろと周りを見回す。大江戸八百八町ランドの中にいることは間違いない。だって、風景は現代のものじゃない。

 だけど……。


「あれ?」


 違和感があった。

 さっきまでやっていた撮影をやっているような気配がない。それと、周りにいる人がみんな着物を着ている。普段着の人が一人もいない。さっきまでは普通の服を着ている人の方が多かったはずだ。いつの間にみんな着替えたんだろう。それとも、撮影している人のど真ん中にいるってことだろうか。

 それにしては、誰も私のことなんか気にしていない気もするし、カメラがどこにもない。

 それに、馬に蹴られたはずなのに大ケガをしている様子も無い。膝のあたりにちょっとだけ擦りむいたようなピリピリ感があるけど、それだけだ。


「楓? どこ?」


 まずは楓の姿を探す。さっきすぐそばにいたはずだ。それなのにどこにもいない。私があんなことになったら、すぐに駆けつけてきそうなのに。なにしろ、頼りになる私の友だちだから。

 先生を呼びに行っているのだろうか。


「おいおい。でぇじょうぶか、嬢ちゃん」


 混乱している私に、さっきの色男が再び心配そうに声を掛けてきた。それにしても、この色男、江戸っ子な言い回しが板についていて聞いていて耳に心地よい。なんて思っていたら、


「立てるか? いつまでもこんな往来で座り込んでると危ねぇからな。ほら」


 私に手を差し出してきた。


「あ、えと、す、すみません」


 私はおずおずと手を伸ばす。


「おっと。足下、気を付けなよ、嬢ちゃん」


 私を優しく立たせて、色男がニッと笑う。白い歯が眩しい。

 ヤバい。

 上様じゃないけど、仕事人のあの人でもないけど、町人にまぎれて事件を追っているお奉行様でもないけど……、カッコイイ。素敵すぎる。いや江戸っ子的に言えば、粋だ。しかも、無駄に色気がある。後れ毛とか最高だ。

 もしかしたら、新しく始まる時代劇の主役かもしれない。そんな人に優しい言葉を掛けてもらって、手なんか握られちゃって。


「あ、あわわわわ。すみません」


 私は慌てて、色男から手を離す。


「いいってことよ。こんなに可愛い嬢ちゃんが困ってるところを放っておくなんて、男がすたるってもんよ」

「……はうっ」


 せっかく起こしてもらったというのに、膝から崩れ落ちそうになる。


「おう、どうした。でぇじょうぶか? やっぱりどこか具合が悪いのか?」

「い、いえ。だ、大丈夫です」


 あなたの色香に迷いましたとか、言えない。

 後ですぐにこの役者さん、絶対にチェックしようと心に誓う。というか、一緒に写真を撮ってもらおう。この男前っぷりだ。絶対に有名になるに決まっている。もしかしたら、もうすでに有名俳優なのかもしれない。私は現代劇とかアイドルとか、そういうのにはあまり興味がないので、その辺よくわからない。


「あの、写真いいですか?」

「しゃしん? そりゃなんでぃ」


 色男が首を傾げる。もしかして、この人は今、江戸の人になりきっているのだろうか。だとしたら、すごく役者だ。


「あはは、本当に江戸の人みたいですね」


 私は笑いながら懐からスマホを取り出そうとする。が、


「あれ?」


 何も持っていなかった。


「え、嘘。落とした?」


 ごそごそ胸のあたりを探る。あんまりやるとはだけそうで怖いけど、それよりも、


「ん?」


 なんだか、着物の生地に違和感がある。


「え、何、この着物……」


 私はぺたぺたと自分の着物を触ってみる。さらさらとした上質な生地。刺繍のされた上質な帯。

 いい仕事してますね。


「どうしたぃ。何か落としたのかい?」

「は、はい。スマホ。持ってたはずなんですが……」

「すま、ほ? なんだか知らねぇが、おめぇさんの周りには何も落ちてなかったがなぁ。どこかで落としちまったかな」


 変だ。

 私はこんな着物を着ていた記憶は無い。これは、時代劇だったらいいとこのお嬢さんが着ているようなやつだ。

 それになんとなくさっきから頭が重い。あと、蒸し暑い、気がする。

 私は髪を触ろうと手を伸ばす。


「……マジか」


 私がさっきしていた扮装は一番安いプランで、もちろん日本髪なんかにしてもらえない。ただ着物を着て歩けるだけのやつだ。髪はちょっぴり整えてもらったものの、カツラなんかつけてもらえなかった。

 それなのに、


「これ、日本髪?」

「おいおい、そんなに触るとせっかくの綺麗な髪が乱れちまうじゃねぇか」

「ええと、私、今どんな髪型してます」

「ん? そりゃ立派な島田髷だが? もしかして、どっかいいとこのお嬢ちゃんだったりするかい?」

「島田、髷……」


 確か、それは日本髪の一種だ。

 何がどうなっているんだろう。

 混乱。

 それに、さっきから知っている顔が全く通らない。

 修学旅行で来ていて、かなりの人数がいるはずだから全く見ないのはおかしい。それに、やっぱり町の風景も変わっている気がする。

 さっきよりもスケールが大きくなっているというか、生活感があるというか。時代劇の町っぽくはあるけど、本物の町みたいに見える。


「あのー」

「なんでぃ」

「私、修学旅行でここに来てるんですけど、友だちとはぐれちゃったみたいで……」


 えへへ、と私は笑って聞いてみる。なんだか、それすらも通じない気がした。そんな予感が、した。


「しゅうがくりょこう? 聞いたことがねぇな。新しい見世物かなにかかい?」


 色男が再び首を傾げる。役になり切っているとかそういうのじゃなくて、本気でそうしている様子だ。


「……まさか」


 私は走り出す。

 着物の裾がキツくて、うまく動けないけれど構わずに走る。


「お、おい。嬢ちゃん! どこ行くんだい!?」


 色男の声が聞こえるけど、今は構っていられない。

 ここ、大江戸八百八町ランドは江戸の町並みがあるものの、少し歩けばすぐにレストランとか、お土産屋さんとか、そういう現代っぽいものが目に入る。だから、江戸時代らしい町並みに浸るにはそれらを視界から排除する必要がある。写真を撮るときにも工夫して、それっぽく撮る必要がある、はずだった。

 それなのに、いつまで走っても入ってきた入り口にすら辿り着かない。町並みはずっと江戸のままだ。おかしい。

 橋だ。こんなに大きい橋は園内の地図にあっただろうか。セットっぽくはあるけど、下にはきちんと川が流れていて、ずっと先まで続いている。つまり、江戸の町並みが続いているってことだ。もちろん書き割りなんかじゃない。

 橋の上にはちゃんと人が渡ってるし、その下の川では荷物を積んだ船が往来している。しかも、どう見てもみんな現代の格好じゃない。


「どこ、ここ。どうなってるの……」


 めちゃくちゃに走ったせいで、いつの間にかあの色男ともはぐれてしまっていた。

 途方に暮れた私は橋の上から、ぼんやりと景色を眺める。

 そうして、視線を上げた先に見えたのは……、


「ん? んん?」


 どう見ても、この場所には絶対に無いものだった。

 だって、あれは。


「どうして、姫路城がここに?」


 橋の欄干手を掛けて、思わず私は呟いたのだった。

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