第2話
19,611 時間前――。
私は、庭の手入れを始め、たくさんの花々を植えた。
マスターに見せるために──。
オイルの匂いはない。
血や硝煙の匂いも消えた。
書類で埋もれていない──清潔感のある部屋。
カーテンを開ければ、澄んだエメラルドグリーンの海と、分厚い雲、紫紺の空が広がっている。
ベッドに横になってからマスターは、みるみるやせ細っていった。
家事スキルをマスターした私は、今まで通りマスターの身の回りの世話をする。
「ブランカ、今日のおやつは……なにかな?」
「今日はチョコブラウニです」
「じゃあ、五切れ」
「三切れまでです」
「今朝は……食事がとれなかったんだ。ちょっとぐらいいいだろう?」
「理解不能です、マスター」
午後三時になると嬉しそうな顔をするマスターが不思議だった。
子供のように目を輝かせるマスターは、世界の話をする。
***
1時間前──。
真っ白で真四角な病室。
消毒液の匂い。
設備の整った病院に連れて行ったが、マスターを延命させることはできなかった。
「マスター……」
マスターの心拍数が止まった。
枯れ木のような細い手に触れても、握り返してはくれない。どんどん冷たくなっていく。目は閉じたまま──眠るように逝った。
「マスター……。私は壊れてしまったのでしょうか。マスター……明日の予定がわかりません。どうすればいいのでしょう? マスター……おやつが美味しい理由が分からないままなのに……。何が好きなのか……任務遂行できません……マスター……」
マスターを失った私は自己存在を確立できず──いやマスターの死を受け止めきれなかった。それゆえ通常業務に支障をきたしたという理由で、記憶を削除したのだ。
「マスターがいないのに、私の記憶など意味がありません……」
***
-8,760時間。
こうしてAIの記憶は、自分自身の意志で削除した。強制終了を行うも、私にその権限はなかった。それならとスリープモードに切り替える。目覚めることはない。
(マスター……)
-986,600時間。
長い、長い時間が経過し、百年以上が経過した頃だろうか。
(マスター?)
「あ、やっぱり動いてなかったように見えたけれど、単にスリープモードとメモリーチップの容量不足だったんですね、オーナー!」
「これで再起動してもらわなければ、私が困るからな。これで肩の荷が降りたものだ」
「オーナー、彼女への説明がまだ残っているはずだけど」
「私はしばらく席を外すぞ。……彼女と私が会うのは、よくはないだろうからな」
「ええええ!? じゃあ、僕が説明するんですか!?」
「そういうこと。では頼んだ」
「ちょ、オーナー!」
聞き慣れない声に、重たげな瞼を開いた。
分析――エラー。
該当者なし。
「――っ」
目映さの先に、真っ白な空間が広がっている。
吹き抜けの天井にアンティークっぽい螺旋階段、ホテルエントランスのような空間で、受付の傍にはラウンジと白いグランドピアノが置かれていた。
私は視界から入る情報に片っ端から検索をかけるが、全てエラーと出る。
「……ここは、どこでしょうか?」
「ようこそ。シュレディンガーの箱庭、ホテル・ブランカへ。ここはある条件の人のみ訪れることができる場所なんだ。僕はこのホテルの住みこみのバイトで、シュガーって、……変な名前だとか言わないでくださいよ。オーナーが勝手につけたあだ名なんです」
「……私は人間ではありません」
「うん」
人の良さそうな青年は私の言葉に頷いた。私が何なのかは理解しているようだ。
「でも君が、ここに訪れて、再起動させることが重要……らしい」
「理解不能です」
「君のコアとなった心臓部は佐藤甘斎博士が発掘した《未知なるエネルギーの原石》を加工して使用したらしい。そのコアに詰まっている宇宙数百分のトンデモエネルギーは、君の思いに反応してあらゆることを可能にしたとかで、
「…………頭は大丈夫ですか?」
「あああーーー、分かっていた反応だけど本当なんだって!」
再起動のバックアップが終わっていないせいか、青年の話は全くもって意味不明だった。思考速度がやたら重い。
センサーも分析もうまく機能しない。
「マスター以外に、意味の分からないことをいう人間がいるとは思いませんでした。もしかして人間は、みな意味不明な言葉の羅列を吐くモノなのでしょうか?」
「いや? 違うと思うけれど……」
シュガーは、「オーナーが夜勤明けで眠っているから! また改めて説明するよ」と言い、私をラウンジの席に案内した。
「上手く説明できたかわかないけれど、ここに来た人には好きなものを食べて貰っているから、遠慮せずに何か頼んでよ!」
「しかし私は……」
「いいから!」
そう言って彼は強引にメニューを手渡した。
そこには様々な料理が書かれている。どれもマスターが好きだった料理ばかりだ。
やはり人間はこのような物を好むようだ、とデータを更新する。データ用量が増えたが、未だ過去のデータが処理しきれていないせいか、上手く思考が働かない。
「あ」
そこでデザートのページを見て、体が硬直した。
心臓が跳ねるような、驚き、衝撃。
これがマスターの言っていた心なのだろうか。よくわからない。
「これは……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます