第35話

大きな手の優しいぬくもり。

「私、保育士の先生になりたかった。優しいあの人みたいになりたかった」


そう呟くと、知らない間に涙がこぼれた。

ポロリとこぼれた涙は頬を伝って床に落ちる。

「だけど現実は違ったの。先生でありたいのに、考えることが沢山ありすぎて、先生でいるだけじゃ認めてもらえなくて……」


気がつけば話をしながらボロボロと涙が溢れ出していた。

自分でも気が付かなかった自分の気持ちが止まらなくなって、両手で顔を覆って泣きじゃくる。


「それでも頑張って先生になろうとしたけど、ダメだった。できなかったの」

大和は黙って千明の頭を撫でた。


千明が吐き出す気持ちを全部受け入れるように、優しく、丁寧な仕草で抱き寄せる。

「だけどそれは何年も前のことだ。今の千明は成長した」

「そんなこと……ない」


成長なんてきっとしてない。

この前だってミスをしてクレームを入れられると思って、気分が悪くなって倒れてしまった。


どこにいても失敗ばかりだ。

「成長してるさ。なにがあっても絶対に仕事を休まない。子供を見れば笑顔になる。それって強くないとできないことだろ」

「でも、でも……」



千明は子供みたいにしゃくりあげて泣く。

本当は保育士の先生になりたい。


もう1度夢の中で生きていきたい。

そんな気持ちが強く湧き上がってくる。


これが、私の本当の気持ちなの……?

「嫌ならここからだって逃げるはずだ。だけど千明は逃げてない。今もここにいる」


それは大和がいてくれるからだ。

いつも手を差し伸べて、支えてくれているからだ。


それに、梨江や晋也だっている。

ここでは1人じゃないと感じられる。



「辛くなれば戻ってくればいい。千明の居場所はいつでもここにある」

そんなことを言われたら心が揺れ動いてしまう。


もう1度、夢の中でチャレンジしたいと思ってしまう。

「あまり私を甘やかさないで」


しゃくりあげながら言った。

帰る場所があると思えば甘えてしまう。


いっそ、突き放してほしかった。

「大丈夫。千明ならきっとやれるから」



「ユウくん走らないで! アユちゃん、先生と手をつないでね」

園庭ではしゃぐ子どもたちとともに千明は汗をかいて駆け回っていた。

5歳クラスの子どもたちはみんなパワフルでついていくのがやっとだ。


「千明せんせぇ、こっち!」

「はやくはやくぅ!」

アユちゃんにグイグイと引っ張られておままごと遊びをしている女の子たちの輪の中に入っていく。


中には一緒に遊んでいる男の子の姿もあって、最近では誰がどんな遊びに夢中になっても咎められることはない。

「千明せんせぇは、帰ってきたお父さん役ね?」


「先生、お父さん役なの?」

千明は自分で自分を指差してそう聞き、すぐにまぁいっかと思い直す。


「ただいまぁ、今帰ったよ。はぁ、仕事疲れたなぁ」

千明の演技に合わせてユウくんが「おかえりなさい、あなたぁ」と、返事をする。


その声がやけに女性っぽくて驚いてしまう。

普段から大人たちをよく観察しているんだろう。


「お父さんお帰りなさぁい」

アユちゃんは娘役みたいだ。



抱きついてはしゃいでいる。

「こらこらアユちゃん。お父さんは疲れてるんだから、休ませてあげなさい」


「はぁい」

まるで本当の家族のようでプッと吹き出してしまう。


それからも子供たちとの遊びの時間は続いて、気がつくと園長先生が近くに立っていた。

「千明先生は本当に楽しそうに子供と遊ぶわね」


「ご、ごめんなさい。他の仕事もあるのに」

慌てて立ち上がった千明に園長先生は「いいのいいの」と手で合図した。


「事務処理なんかは私みたいな年寄先生でもできるんだから、若い千明先生は子供の相手をしてくれたほうが助かるのよ」

ほほほっと上品な声で笑う園長先生は子供たちにも大人気で、すぐに囲まれてしまう。


このひまわり保育園に千明が再就職したのは3ヶ月前のことだった。

大和からの後押しもあり、思い切って面接を受けてみることになったのだ。


こうして間近で子供たちと関わっていると、時間を忘れてしまうくらい楽しいことを再確認した。



大和と付き合っていなければ、今こうしてもう1度夢を追いかけるようなこともなかったはずだ。

本当に、心から感謝している。


「ところで千明先生、今日は誕生日じゃなかった?」

「実はそうなんです」

千明は今日で28歳になる。


残念ながら大和は今日も仕事で、予定はなにもなかった。

がっくりと項垂れてしまいそうなときに園児たちが一斉に駆け寄ってきた。


そして声を合わせて「千明せんせい、おたんじょうびおめでとう!」と、拍手してくれる。

それだけで千明の胸は一杯になって泣いてしまいそうになる。


「これ、みんなでお花を積んできたの!」

アユちゃんが手渡してくれたのは黄色い、小さな花だった。

小さな手に一杯握りしめられている。


「これ、先生に?」

「そうだよ!」

コックリ頷くアユちゃんから花を受け取って匂いをかいでみると、甘い香りがした。

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