第27話
『子どもたちは可愛いです。だけどクレームとか、そっちのほうが全然ダメで、怖くなって逃げたくなってしまうんです。クレームが怖くて、外で遊ぶのだって本当は嫌で……』
今までの不安を打ち明ける。
『あれくらいのことはよくあることです』
園長先生がため息交じりに言った。
そう、よくあることだからこそ、これから先やっていけるのかどうか不安になった。
千明の不安は子供たちに伝染し、そして親にも伝わる。
『こんな先生で本当に大丈夫なの?』
いつか、そんな風に言われるんじゃないかと思ってここ数日は気が気じゃなかった。
例えばここが大きなスーパーで、千明がレジ店員だとすれば。
なにかクレームが入っても誰かが助け舟を出してくれるだろう。
業務のマニュアルが見直されるかもしれない。
だけどここは保育園で、いわ子供の命を預かっていると言われてもいいくらいの場所だ。
それだけの主にが千明の胸にずっしりと鎮座している中で、クレームを受けなければならない。
どんなに小さなクレームでも千明にとっては爆弾のように大きな衝撃となる。
『最近は一人っ子の子が増えているので、親たちも一人の子にかかりっきり。可愛くて仕方がないものです。
その分過保護になっても仕方ないんです』
『わかってる、つもりですけど……』
千明は両手を握りしめてうつむいた。
ただ子供が好きというだけではこの仕事は務まらない。
それがようやくわかってきた。
親たちに心配をかけてはいけない。
親たちのクレームから逃げてはいけない。
子供のことだけでなく、その親のことまで考える必要があることを思い知らさせた。
それから数カ月後、千明は園をやめた。
大きな出来事があったわけじゃない。
けれどどうしても仕事に馴染むことができなかった。
園で働く最後の日は受け持つクラスの子が全員で折り紙を折ってプレゼントしてくれた。
それは本当に心から嬉しいと感じる出来事だった。
☆☆☆
ハッと気がついて目を開けると白い天井が見えた。
ところどころシミついている天井は見覚えのあるもので、事務所のソファに寝かされているのだと気がついた。
上半身を起こそうとしたところで誰かが事務所に入ってきて駆け寄ってきた。
「千明、大丈夫か!?」
息を切らして近づいてきたのは大和だ。
大和は眉を下げて今にも泣き出してしまいそうな子犬の顔になっている。
「大和さん……私は大丈夫です」
そう答えてからまだ少し頭がクラクラしていることに気がついて、再びソファに横になった。
一体何があったんだっけ?
と、考えて自分が塩と砂糖を間違えて準備してしまったことを思い出す。
「ご、ごめんなさい。お客さんは?」
「どうにか収めて帰ってもらったから大丈夫だよ」
大和の言うことにはお土産売り場で売っているアイスを持って帰ってもらったようだ。
千明は両手で顔を覆ってため息を吐き出した。
「あんなミスするなんて、ごめんなさい」
子どもたちが塩代わりアイスを食べて驚いて泣いていたことを思い出すと、胸が痛む。
千明がちゃんと謝罪しないといけなかったのに、あれをきっかけにして保育士時代のことを思い出して倒れてしまうなんて。
本当に自分がなさけなくなる。
「そんなこと気にしなくていい。救急車を呼ぼうか悩んだんだぞ」
「それは大げさだよ」
自分のときだって救急車を拒否したのにと、千明は苦笑する。
「だけど検査くらいはしたほうがいいかもしれない。今度の休みは病院へ行くべきだ」
「わかった。ちゃんと診てもらってくる」
きっと、嫌なことを思い出したことによるストレス反応だと思うけれど、千明は素直に頷いた。
そう言わないと大和が納得してくれそうになかったからだ。
「それにしてもあんなミスするなんて珍しいな」
「ご、ごめんなさい」
今思い出しても恥ずかしい。
塩と砂糖を間違えるなんて、ここに務め始めてから初めてのことだった。
「なにか考え事でもしてたのか?」
そう質問されて心臓がドキリと高鳴る。
考え事と言えば大和のことを考えていた。
だけどそれを本人に面と向かって伝えるのは恥ずかしすぎた。
つい視線をそらして顔が熱くなるのをごまかそうとするが、うまく行かない。
異変に気がついた大和が顔を近づけてきたのだ。
こんなときに至近距離にぬくもりを感じれば、嫌でも意識してしまう。
千明はどうにか胸のドキドキを抑えようとうつむく。
「もしかして、俺のせい?」
大和にもなにか思うところがあったようで、自分を指差して聞いてくる。
咄嗟に違うと言いかけたが、口を閉じる。
ここで素直に説明してしまったほうが、後々ミスも少なくなるはずだ。
死ぬほどの恥ずかしさを感じながら大和を見つめた。
「俺になにか悪いところがあるなら直す。だから言ってくれ」
大和が覚悟を決めたように真剣な表情になった。
もう、泣きそうな目はしていない。
1人の、男の目だ。
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