第25話
梨江が積極的になると決めた翌日。
体験教室の準備を進めながら頻繁に晋也に話しかけていた。
晋也はいつもの調子でそれに返事をする。
そこに恋愛感情があるのかどうか、傍から見ていてもよくわからなかった。
「全く鈍感なんだから」
晋也が部屋から出ていったタイミングで梨江がさっそく愚痴り始める。
普段よりも多く話しかけているけれど、仲がいいふたりだからこそ理解されない部分があるみたいだ。
「前途多難だね」
「自分は幸せだからって能天気なこと言わないでよ」
ムッとした表情で睨まれて千明は軽く舌を出す。
けれど千明だってのんびりとしているつもりはなかった。
大和がホテルを取ってくれた日以来、そういう雰囲気になったことは一度もない。
一緒に出かけても夕方になれば必ずアパートに送り届けられてしまうし、千明から誘うのも難しかった。
恋愛経験が豊富ならばこうも悩むことはなかったんだろうけれど、こればかりは仕方ないことだった。
「どうして晋也はあんなに鈍感なのかな。私の魅力が足りないとか?」
「急に友達から恋愛対象に移るのは難しいんじゃないかな? もっと、段階を踏んでさぁ」
それからは互いの恋愛話で盛り上がった。
だから気が付くことができなかったんだ。
小さな小さなミスをしていたことに……。
☆☆☆
「ギャアア!」
子供の鳴き声が炸裂して、洗い物をしていた千明は手を止めて振り向いた。
体験教室ではアイスクリームが完成して、子どもたちが食べ始めたところだった。
今日の子供達はとてもやんちゃで、芝生に出たころからずっと喧嘩をしているグループもいたから、また喧嘩でも始まったんだろうと思っていた。
だけど様子がおかしい。
アイスを片手に持った男の子が舌を出して顔をしかめている。
「ちょっと、これお塩が入ってるじゃない!」
すぐに異変に気がついて男の子に駆け寄ったお母さんがかな切り声を上げた。
お塩!?
千明と梨江と晋也の3人が慌てて駆け寄る。
すでに出来上がったアイスクリームを少量スプーンに乗せて味見をしてみると、確かに辛味が口の中に広がった。
「す、すみません! 材料を間違えたみたいです!」
すぐに晋也が頭を下げて、ふたりも続けて謝罪した。
「アイスはすぐに作り直します」
梨江がそう言って、準備室へ飛び込んでいく。
普段のやり方では時間がかかるから、材料を混ぜて冷凍庫で一気に冷やし固めるしかない。
そんな中、千明は1人青ざめて固まっていた。
このテーブルの準備をしたのは私だ。
私が材料をミスしたんだ……。
「ごめんなさい! すみませんでした!」
こんな単純なミスをしたことは初めての経験で、全身の血の気が引いていく。
母親は何度もため息を吐き出し、食べてしまった男の子は騒ぎ続けている。
その声が混ざり合い、千明の心の中を侵食していく。
男の子はそれほど騒いでいなかったかもしれない。
母親も、もう怒ってはいなかったかもしれない。
だけどその声は幾重にも重なり合って千明の記憶を呼び起こす。
グラリと視界が揺れたかと思うと、目の前には保育園の園庭があった。
子どもたちが一斉に教室から駆け出してきて思い思いに遊び始める。
千明は保育園用のエプロンを身に着けていて、反射的に子どもたちの後を追っていた。
『○○くん、そっちは危ないよ。××ちゃん、こっちで一緒に遊ぼうか』
それは保育園で働いていた時の記憶だった。
千明は子供たちに囲まれて幸せだった。
どの子もとてもかわいくて、ずっと見ていても全然飽きない。
小さな手が千明のエプロンを引っ張って「ちあきせんせぇ」と呼ばれることが嬉しくて仕方なかった。
これが自分にとっての天職じゃなければ、なにが天職だと言えるだろう。
本気でそう思っていた。
だけどそれは無残にも打ち砕かれる。
『痛いっ!』
聞こえてきた悲鳴に我に返り、視線を向ける。
そこにはこけてしまった女の子がいた。
『××ちゃん、大丈夫?』
駆け寄り、すぐに抱き起こす。
膝を怪我してしまっているけれど、本人は唇を引き結んで必死に泣くのを我慢している。
『泣かないのえらいね。絆創膏を貼ってあげる』
千明は女の子をおんぶして教室へと向かう。
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