第20話

☆☆☆


それからふたりは大和の運転でそのまま会社へ向かった。

泊まるつもりがなくて着替えがなかったから、途中服屋に寄って仕事用の服と靴を調達することになった。

余計な出費だったけれど、昨日のことを思えば文句はなかった。


それに自分が払うと言ってくれた大和を断ったのは千明だった。

昨日あれだけのことをしてくれた大和に、更にお金を出させることに抵抗があったのだ。

きっと、大和からすればこれくらいのお金どうってことないんだと思う。


だけど千明は大和に奢ってもらうために一緒にいるわけじゃなかった。

「あれれ~? 今日はやけにお肌がツヤツヤしてない?」

出勤してきた千明の異変に目ざとく感づいたのはもちろん梨江だ。


更衣室で梨江は千明の顔をマジマジと見つめている。

毛穴のひとつひとつに視線が突き刺さってくるみたいで、居心地が悪い。

「シャンプーも変えた?」


「もう、どうだっていいでしょ?」

千明はそそくさとエプロンを身に着けて更衣室から逃げ出した。

このままじゃ梨江に根掘り葉掘り聞き出されてしまう。


昨日の出来事は千明にとって胸に留めておきたくなるような、素敵なことだったからなんでもかんでも話すわけにはいかない。



事務旅兼休憩室に入ると、大和がすでにパソコンの電源を付けていた。

邪魔しないように後ろを遠って自分の席へ向かう。

今日の体験教室の予約はあまり入っていないみたいだ。


それなら施設内の掃除や、次の団体客向けの準備をしようか。

1日の仕事内容を頭の中で組み立ててメモしていたとき、視線を感じて顔をあげた。

バチッと音がするみたいに大和と視線がぶつかって、咄嗟に顔が熱くなる。


大和も同じように赤面して視線をそらせてしまった。

なにか仕事の用事があってこちらを伺っていたわけではなさそうだ。

「ちょっとふたりとも、仕事中にラブラブしないでくださいよぉ。俺寂しいじゃないっすかぁ」


すかさず声をかけてきたのは晋也だった。

「べ、別にラブラブとかしてないでしょ!」

慌てて否定するけれど顔が真っ赤なので照れていることはバレバレだ。


「視線合わせて赤面するとか、中学生かっつーの」

続けて辛辣な意見を言われて黙り込んでしまう。


そんなことを言われても千明も大和も恋愛経験が豊富とはいい難いので仕方ないことだった。

「さ、早く準備しなきゃ」

とくに急ぎの仕事はないが、千明はわざと声に出して忙しさをアピールし、事務所を出たのだった。


☆☆☆


それからは仕事も順調で、特になんの問題もなく数日が経過していた。

変わったことと言えばメッセージのやり取りのときに敬語じゃなくなったことくらいだった。


職場で大和とふたりきりになったときにはできるだけ敬語を避けているけれど、仕事中はやっぱり上手くいかなかった。

だけど『菊池さん』が『大和さん』に切り替わったところは変化がなく、梨江と晋也にまた茶化されてしまった。


「今日は体験教室に来てくれてありがとう」

その日は日曜日で、朝から幼稚園の団体さんがアイスクリーム作り体験に来ていた。


外はよく晴れていて、玉転がしには持ってこいだ。

千明の声に沢山の園児たちと保護者が元気に「はぁい」と挨拶してくる。

小さな手のひらが空へと向かって突き出される様子は微笑ましい。


「それじゃ、これから玉を転がして行きまぁす」

子供にとってはこれが一番楽しいところだ。

さっき室内で材料を入れた玉をみんなが一斉に転がし始める。


芝生の下では玉があらぬ方向へ転がって行かないように、梨江と晋也が見張っている。

そ、そのときだった。



「キャッ!」

小さな悲鳴が聞こえてきて視線を向けると、女の子が芝生の上で転んでしまっているのが見えた。

千明は慌てて駆け寄る。

「大丈夫?」

声をかけるけれど女の子は顔を挙げない。


しばしの間があったかと思った次の瞬間、女の子は声を上げて泣き出した。

「怪我した? 大丈夫?」

更に声をかけるけれど返事はない。


激しい鳴き声が喉の奥からほとばしり続けている。

芝生は柔かいし、大きな怪我はなさそうだけれどコケた痛みとショックで鳴き声は更に大きくなる。

周囲を見回して親を探すけれど、それらしい人は見当たらない。


とにかく施設内へ戻って手当をしないと。

そう考えて女の子の体を両手で持ち上げて立たせた。

膝を擦りむいて血が出ている。

「痛いね。お姉さんの背中においで」


千明がしゃがみこんで背中を向けると、女の子は素直に乗っかって来てくれた。

そのままおんぶして施設へ向かう途中で、ようやく気がついた女の子の父親が駆けつけてきた。


「すみません。ちょっと目を離した空きに」

父親は女の子を置いてトイレに行っていたみたいだ。



今日は子供会で来ていて親たちが沢山いるから大丈夫だと判断してしまったみたいだ。

でも玉を転がすタイミングでいなくなるのはさすがにまずかった。

周りの親たちだって自分の子供が怪我をしないか見ているのでやっとだったはずだ。


だけど今は文句を言っている暇はない。

早く手当をしてあげないと女の子は泣き続けている。

施設内へ女の子を連れて入ると、その鳴き声に驚いて大和が事務所から出てきた。


そしてすぐに事情を察知すると一度事務所へ戻り、救急箱を取って戻ってきてくれた。

その間に千明は女の子を木製のベンチに座らせる。

血はすでに止まっているようでひとまず安心だ。


「芝生広場は広いですし、玉を転がすときにはできるだけお子さんと一緒にいてあげてください」

手当をしながら、つい強い口調で注意してしまう。


「本当に、ご迷惑をかけて……」

父親も反省しているようで、ずっと女の子と視線を合わせるために床に膝をついて座っている。


悪意があってやったわけでも、娘に無関心で放置したというわけでもなさそうだ。

「はい、できたよ。もう痛くない?」

ガーゼを貼り付けて手当を終えた頃には女の子は泣き止み、少ししゃくりあげる程度になっていた。


アイスも、もうそろそろ出来上がっているころだろう。

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