第19話
千明は真剣な表情で頷いた。
でも、満月じゃないのなら狼男が狼に変身することはないんじゃない?
そう思ったときだった。
突然抱きしめられて一瞬頭の中が真っ白になる。
次にようやく我に返って「あ、あの、大和さん?」と、抱きしめられたまま名前を呼んだ。
大和はジッと固まったように動かない。
ふたりの呼吸音や心音が重なり合って、まるでひとつになってしまったような照れくささを感じる。
「満月じゃなくても、野性的な行動で俺の体は変化する」
耳元で大和がささやく。
その意味を理解するより前にソファに押し倒されていた。
大和の顔がすぐ近くにあって心臓が飛び出してしまいそうだ。
恥ずかしさに顔をそむけたくなるけれど、それもできない距離感。
近づいてきた大和の唇が千明の唇に押し当てられた。
柔らかくて、熱すぎる体温。
大和の喉の奥から野性的な唸り声が漏れて出たとき、体が離されていた。
大和が苦しそうに顔を歪めている。
「大和さん!?」
「大丈夫だから……」
そういう口からは長い犬歯が除く。
大和が乱暴にTシャツを脱ぎ捨てると、筋肉がついた胸板が現れた。
ところどころ血管が浮き出していて相当なトレーニングをしていないとここまでの筋肉はつかないと思わせる。
更に目の色が色から銀色へと代わり、普段の大和からどんどん遠ざかっていく。
千明は一瞬恐怖を感じたけれど、逃げなかった。
目の前で変貌を遂げる大和をジッと見つめる。
「これが、俺の本当の姿だ」
童話に聞く狼の姿ではない。
かといって普通の人間でもない。
ほとんど人間の姿を保ちつつも、屈強な体と動物の目を持つ生き物になっていた。
「人間でも狼でもない。中途半端な存在だ」
千明はなにも言えなかった。
毛むくじゃらになるわけでもなく、人間を襲って食べるわけでもない。
だけど口から覗いている牙は明らかに人間のものではなかった。
狼の牙。
そういうのがふさわしい鋭利さだった。
「これを見たら誰でも逃げ出す。恐いに決まってる」
「そんなこと……」
口で否定しても伝わらない。
そう考えた千明は大和の胸板に触れた。
人間のときならきっとここまでの筋肉はついていないんだろう。
満月の日、もしくは野性的な興奮を感じたときだけに出現する筋肉。
触れた肌は燃えるように熱い。
獣の体温だった。
「私は怖くない」
いつの間にか敬語を忘れていた。
大和がなぜすぐに泣きそうな顔をするのか、なんとなく理解できた気がした。
また誰かが自分の前からいなくなってしまうかもしれないという恐怖を、ずっと胸に抱えて生きてきたからだろう。
「私は怖くないよ?」
そっと、自分から体を寄せる。
胸に頬を当てると大和の心音がハッキリと聞こえてきた。
どんな姿でも、どんな悲しみを持っていても、こうしてしっかりと生きている。
それだけでよかった。
「千明……」
大和の声が震えている。
顔をあげると千明の頬に涙が振ってきた。
大和の銀色の両目が濡れて、そこから涙がとめどなく溢れてくる。
「今までひとりで、誰にも相談できずに辛かったんだね」
千明は大和の頭を抱きしめた。
大和は両手で自分の顔を覆って肩を震わせる。
それは危険な獣なんかじゃなくて、自分を理解してもらえない弱い生き物だった。
「でも大丈夫だから。これからは私がいるからね」
少し癖のある髪の毛を撫でると、とても柔らかくて心地よかった。
顔を近づけてみると、シャンプーの爽やかな香りの中に、ほんの少し野生の匂いが混ざっている。
大和は千明の体を抱きしめて、ふたりはずっとそうしていたのだった。
☆☆☆
朝目が覚めると隣で眠る大和は人間の姿に戻っていた。
体の筋肉も、口からはみ出していた牙も消えている。
そっと肩に触れてみてもその体温は人の平常時のものだった。
「おはよう」
ジッと大和の寝顔を見つめていると、視線に気がついて目を覚ましてしまった。
「おはようございます」
つい敬語になってしまい「あ」と、呟く。
ふたりで目を見交わせて笑いあった。
昨晩はなにが起こったのかハッキリと記憶している。
覚えているのに、なんだかモヤがかかったように不鮮明な部分も残っていた。
だけど、とにかく幸せな時間をふたりで共有した。
それだけでもう十分だった。
「昨日は怖くなかったか?」
髪の毛を撫でながらそう聞かれて千明は左右に首を振る。
大和は普段より確かに野生的だったかもしれない。
だけどそこに恐怖心はなかった。
あるとすればやはり幸せだけだった。
「よかった」
大和が心から安堵しているのを知って、その体を抱きしめる。
こうして抱きしめることでもっともっと安心してほしいと思う。
私はここにいる。
私はどこにも行かないと、体を持って示したい。
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