第14話
「覚えてますけど……」
「あれは狼の血が出てきた合図だ。俺は、本能に逆らうことが難しくなってた」
「満月だったからですか?」
その質問に大和はうなづく。
千明はため息をついて「そんなの信じません。満月のせいにしているだけですよね?」と強く言い放つ。
「満月の夜だけじゃない。欲情したときも自分を忘れるときがある。そうやって、好きな人を傷つけてしまったことも何度もあるんだ」
大和の声も表情も真剣そのものだった。
「だから、怖くなったんだ。人を好きになるのが。好きな人と一緒にいることが」
「それが菊池さんの言い分ですか?」
千明の声が震えた。
言い訳をするにしてももっと常識的な言い訳があったはずだ。
こんな幼稚な言い訳が通用すると思われていたことが悲しかった。
昨日の夜でパーっと忘れたはずだった悲しみが、胸の奥からじわじわと湧き出してくるのを感じる。
千明は窓の外へ視線を向けたまま、その後は無言を貫き通したのだった。
☆☆☆
今日は早く帰りたい。
それでもう一度、ちゃんと気持ちをリセットさせたい。
そう思った日ほど残業が出てくるものだった。
昼間アイスクリーム作り体験をした子供の母親から施設へ連絡が入り、あの後腹痛を起こしたと言われたのだ。
「材料の賞味期限はちゃんと確認してるし、使った道具も洗浄消毒をしてる。今までこんなクレームが入ったことはなかったんだけどな」
これには大和も頭を抱えることになった。
必死になって原因を探っている間に、その親子は近くの内科へ行って診察してもらったという。
そして出た結果が子供の便秘だった。
子供は女の子だったため、それを両親に伝えることが恥ずかしく、昼間食べたアイスクリームのせいだと口走ってしまったらしい。
真相が明らかになった直後、大和は椅子にグッタリと座り込んでしまった。
大和と同じく原因究明のために駆け回っていた梨江、晋也、千明の3人もグッタリだ。
「今回は何事もなく済んだけど、それでも気をつけないとな」
安堵する暇もなく大和はそう言った。
アイスクリームの材料の賞味期限を全員で周知すること。
賞味期限が近くなったものは使わないこと。
それに使ったもは2度洗いすることになった。
少し手間はかかるけれど、それで今回のようなクレームがなくなるのであれば安いものだった。
特にアイスを作るための玉は洗いにくいこともあり、普段から気をつける必要がありそうだ。
「お騒がせしてすみませんでした」
自分たちの勘違いだとわかった母親が、子供つれて謝罪にきた。
その手には有名な焼き菓子が持参されていて、晋也は無駄な仕事を増やされた鬱憤を晴らすように食べていた。
「あ~あ、今日は疲れたね。早く帰ろう」
営業時間を終えてようやく体験施設の鍵を閉めた頃、大きく伸びをしながら梨江が言った。
「そうだね。早く帰ろう」
そう返事をしてから今日は自分の車で来ていないことを思い出した。
少し逡巡してから「ねぇ、今日は送って行ってくれない?」と、梨江に持ちかける。
「いいけど、車で来てないの?」
「今日はちょっと……」
なにがあったのかはさすがに言えない。
大和が自分は狼男だと言い出したなんて言えば、きっと梨江は激怒するだろう。
そのまま大和に食って掛かる可能性だってある。
あの言い訳は千明だって許せるものじゃなかった。
「そっか。じゃあ行こうか」
梨江が先に立って更衣室へ向かい始めたその時だった。
「菊池さん、どうしたんですか!?」
と、焦っている晋也の声が聞こえてきてふたりは足を止めた。
目を見交わせてから事務所へと向かう。
そこには床にうずくまっている大和の姿と、その横でオロオロしている晋也の姿があった。
それを見た瞬間、千明はあの夜のことを思い出した。
あの時とまるで同じような苦しみ方だ。
「菊池さん、大丈夫ですか?」
千明はすぐに駆け寄って大和の横に膝をついた。
大和は額に汗をにじませて苦しげにうめき声を上げている。
「誰か呼ばなきゃ」
梨江がそう言って内線電話に手を伸ばそうとするのを、大和が止めた。
大和に足首を掴まれた梨江は小さく悲鳴を上げた。
「やめてくれ……俺は、大丈夫だから……」
苦しそうに言うその声はとても大丈夫そうには聞こえない。
顔を歪めて必死に堪えているのが痛々しい。
「もしかしてなにか薬があったりしますか?」
なにか常備している薬があるのなら、それで対応できるかもしれない。
だけど大和は左右に首を振った。
「これは……病気じゃないんだ」
「でも、こんなに来るしそうなのに」
そう言ったとき、千明はハッと息を飲んだ。
今朝、車の中で話をしたことを思い出す。
狼男。
もしあの話が本当なら?
そう考えるより先に体が動いていた。
事務所の窓へ駆け寄ってカーテンを開く。
空には満点の星と満月があった。
「満月……」
千明はポツリと呟き、そして大和の元へと駆け戻った。
今日は満月の夜だ。
狼の血が出てきているのかもしれない。
大和の顔を覗き込んでみると、その目が黒色からすーっと銀色に変化するのを見た。
悲鳴を上げそうになり、慌てて飲み込む。
これは本物だ。
嘘じゃなかったんだ!
目の色くらいコンタクトで変えられると思っていたが、大間違いだ。
「こ、ここは大丈夫だから、ふたりとも先に帰って」
「え? なに言ってるの?」
梨江が困惑した表情を浮かべる。
誰がどう見ても大丈夫な状況ではなかった。
「本当に大丈夫だから、菊池さん、そうでしょう?」
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