第3話

周囲は暗くなっているけれど、まだ時間は早い。

それに落としたとすれば体験施設内だ。


それ以外でバッグを開くことはない。



「大丈夫だよ、ふたりは先に帰ってて」



千明はそう言うと、急いで体験施設へと戻ったのだった。


☆☆☆


きっと、バッグからお弁当を取り出したときに落ちてしまったんだ。

となると鍵は体験施設の更衣室にあるはず。

千明が足早に体験施設に戻ってくると、事務所の電気はまだついていた。



「失礼しまぁす」



小声で声をかけて施設内へ入る。

事務所と更衣室は離れた場所にあるから、千明はそのまま奥の更衣室へ向かった。

女性用更衣室のロッカーを開くと案の定見慣れた車の鍵が落ちていた。


それを手に取ってホッと息を吐き出す。

ここになかったらどうしようかと思っていた。

無事に鍵を救出して更衣室を出たときだった。


さっきまで明かりがついていた事務所が暗くなっている。

大和はもう帰ったんだろうか?


そう思って事務所をのぞいてみると、パソコンの電源がつきっぱなしになっていることに気がついた。

画面から明るい光が漏れている。



「菊池さん?」



千明は声をかけながら事務所の電気を付けた。

パッと周囲が明るくなると同時に、床に倒れている大和の姿を見つけて息を飲む。


大和は入り口の近くでうつ伏せになって倒れている。



「菊池さん、どうしたんですか!?」

すぐにかけよって助け起こそうとするが、大和は完全に意識を失っているようで持ち上げることができない。

「誰か……!!」



焦って周りに助けを呼ぼうとするけれど、もちろん誰もいない。

晋也も梨江も先に帰ってしまった。


こんなことになるならどちらかについてきてもらえばよかった。

と、今更後悔しても遅い。


とにかく大和が無事かどうか確認しないと。

「菊池さん聞こえてますか? 私大塚です」



何度も声をかけているうちに大和のまぶたが震えて、ゆっくりと目が開いた。

よかった!

意識が戻った!



「菊池さん歩けますか? 救急車、呼んだほうがいいですか?」



それよりもまずは他の人に知らせるのが先だろうか。

悩んでいると大和の腕が千明の腕を掴んできた。


痛いほどに捕まれで千明は目を見開く。

「菊池さん?」

覗き込んだ大和の目が怪しく光る。


え……?

千明は息を止めてその目を見つめた。

怪しく銀色に光るその目はいつもの大和の目じゃなかった。


大和の目は黒目がちで、いつも少し潤んでいる。

クリッとして大きくて、大和の30歳という年齢を隠してしまうような愛らしい猫目は、今はするどくつり上がっている。


しいて例えるならそう、まるで狼みたいな目をしている。

そう考えて背筋がゾクリと寒くなった。

菊池さんの目が狼の目だなんて、私なにを考えてるの?



ついさっきまで満月を見ていたから、こんな変なことを考えてるんだわ。

そう思って左右に首をふる。


「菊池さん、救急車を――」

「大丈夫だから」

千明の言葉を遮って大和は自分で体を起こした。


重たい体を引きずるようにしてパソコンへ向かい、電源を落とす。

「だけど辛そうです。誰か呼んだほうが」

「大丈夫だと言ってるだろ!」


突然怒鳴られて体がビクリと跳ねる。

普段の大和では考えられないような低く、威嚇するような声に全身がすくんだ。

「大きな声を出してごめんな。でも、本当に大丈夫だから」


無理やり笑みを浮かべる。

その額には汗が滲んでいた。

こころなしか顔色だって悪い。


やっぱり放っておけない!

「それなら一緒に駐車場まで行きましょう」

千明の提案を、今度は拒否しなかった。



駐車場まで歩くことができれば、あとは千明の運転する車で送り届ければいいと考えた。

送る途中でどうしても大和の体調がもどらなければ、強引に病院へ向かうことにする。


頭の中で手順を考えると、千明も少しだけ落ち着くことができた。

嫌がっている人間を無理やり病院へ連れて行くのは気が引けるけれど、仕方ない。


ふたりは寄り添うようにして体験施設を出たのだった。



時々休憩を挟みながら駐車場へ向かう。

周囲はさっきよりも暗くなっていて、大和が足元を小さな懐中電灯で照らしてくれていた。


幹部クラスの上司たちは持ち場から出る時間が遅いから、それぞれに懐中電灯が配布されているのだと初めて知った。

「私達もその懐中電灯ほしいです。天気が悪い日とか、本当に足元が見えないんですから」


「あぁ……今度かけあっておくよ」

頷きながらもいつもの調子ではないのはわかった。


呼吸も荒くて苦しそうだ。

「ちょっと休憩しましょう」

木製ベンチを視界に捉えて千明はそこに座った。


大和もその隣に倒れ込むように座る。

さっきよりも体調が悪化しているようにみえて千明の胸に不安が広がっていく。


やっぱりこのまま病院につれていくべきよね。

だけどこの状態で駐車場にたどり着けるかどうか……。



千明が大和の顔を覗き込んだときだった。

ふいに顔を上げた大和が獣のようなうめき声を喉から鳴らした。

「菊池さん?」


首をかしげた千明へむけて突然口を開く。

その口の中に牙を見た次の瞬間千明の唇は大和によって塞がれていたのだ。


驚き、目を見開いて硬直する千明。

そんな千明にお構いなく大和は唇を何度も付けたり離したりを繰り返す。

その喉からは獲物を欲しがる獣のうねり声が聞こえ続けてきている。


「ど、どうしたんですか!?」

しばらく呆然として座っていた千明が我に返ってベンチから立つ。

まだ苦しそうに表情を歪める大和が銀色の目で千明を睨めつけた。


そして一言「逃げろ」と呟いたのだった。

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