第十一話 ジブラルタル海峡

 ジブラルタル海峡の西を順調に航行する中、私は船首に立ってぼおっと波を見下ろしている。

 みな変わらず元気でいるかしら? まさか私が死んだと思ったりはしてないわよね。

 リシャールもきっと無事でいるはず。フランソワ・ロロノーと名乗ったあの海賊、リシャールの顔に似ていた……。まぁ遠目だったし、そう見えたってことは、それだけ私は彼を心配してるってことよね。まさに良妻だわ、私。

 手すりに身をかぶせながら、私は考えにふける。


「マリア様、早まってはなりません!」


 後ろから届く声に振り向くと、ドンという衝撃と共にエミーが私にぶつかる。投げ出された私の体は、そのまま手すりを乗り越える。

 間一髪、私は右手を手すりに伸ばし、なんとか落下を防いだ。


「ちょっと、何してくれてるのよエミー!」

「申し訳ありません、マリア様。てっきり、身を投げ出そうとしているのかと」

「てっきりじゃないわよ! あなたのせいで、今こうして身を投げだしちゃってるじゃない!」

「すぐに助けを呼んで参ります。しばしお待ちください」


 エミーは走り去っていく。「しばし」じゃないわよ。どうしてこうなるのよ。ドジってレベルじゃないわ。色々雑用を押し付けようとしたのに、もう本当に使えない娘。


「マリア様、お待たせしました!」

「ようマリア、どうした? 鍛錬でもしてるのか?」


 甲板からエンリケが顔をのぞかせ、片手で手すりにぶら下がる私を見て笑う。


「あなた本当に馬鹿ね! これがどうしてそう見えるのかしら!」

「おやおや、この状況でそんなこと言っていいのかなぁ?」

「エンリケ様、どうかマリア様をお助けください」


 楽しそうに笑うエンリケと、必死に助けを請うエミー。

 悪いけどエミー、これは完全に人選ミスよ。なんでセバスチャンを呼ばなかったの。

 だいたい私は公女よ? なのになんなのあの態度。こんな性悪男に、誰がお願いするものですか。


「おぉいマリア、そろそろ意地張るのやめて、素直にお願いしたほうがいいんじゃないのか?」

「エンリケ様、早くマリア様を引き上げてください。あぁ、どうしたらいいのでしょう」


 エミーも慌てて右往左往する。

 私の右手はもう限界だ。でもこれはもう、プライドの問題なのよ。あんなやつに絶対に卑屈にならないわ。

 私の右手はとうとう力尽き、手すりから離れる。さよなら私……。

 私の身体が海に向かって落下を始めようとすると、誰かの腕が伸びてきてがっしりと私の手を掴む。そのまま私は甲板に引き上げられた。


「マリア様、ご無事ですか?」

「セバスチャン……」


 私を助けてくれたのは、セバスチャンだった。


「坊ちゃん。夜ならまだしも、力の使えない昼間にこんなことはおやめください」

「ったく、いちいちうるさいっての――」

「何かおっしゃいましたか?」

「いえいえ、なんでも」

「ありがとうセバスチャン。助かったわ」

「とんでもございません。こちらこそ、主の非礼お詫びいたします。そしてエマ、お前には状況判断が欠けています。こっちにいらっしゃい。使用人としての心得を一から鍛え直します」

「ひぃ。承知しました……ではマリア様失礼します」


 そう言って、エミーはセバスチャンに連れられ甲板を下りて行った。私は残ったエンリケをギロっと睨み、文句を言う。


「本当に信じられないわ、あなたって人は。私がいなくなったら、お父様に会えても意味がなくなるでしょうが。本当に何考えてるのよ」

「まぁ、なんとかなるかなぁと」

「もう、言っても無駄ね」


 私が呆れて言うのを、エンリケはにこにこして聞いている。


「あなた一体何者なのよ? 貴族か何か知らないけど、私は公女よ? あなたより遙かに位が高いの。分かる?」

「へいへい、こりゃ失礼しました」

「もう、馬鹿にして! 私に何かあったら、イスパニアだけじゃなく、ノルマンディーだってあなたを許さないんだからね!」

「ノルマンディー?」

「そうよ、私はフランクのノルマンディー公子、リシャールの婚約者よ!」

「ほう、こりゃ面白くなってきたな」

「……何がよ?」

「あそこは余りいい噂を聞かないからな。案外、お前を奴隷船に売ったのもその婚約者なんじゃないのか?」

「それ以上彼を侮辱すると許さないわよ!」

「あぁ、これは悪かった」


 何よ。意外に素直じゃない。


「――そろそろ話しなさいよ。あなたのした契約ってのは何なのよ。魔女って一体なんなの?」

「――風の魔女」

「は?」

「当時、俺は陸路でエジプトを目指していてな。いよいよアルプスを越えようとしたときに――まぁいいや、もう昔話だ」

「何よそれ。だいたい、陸路でエジプトを目指すところからおかしいのよ」

「まぁこっちにも色々と事情があるのよ」

「で、エジプトに行ってどうするつもりだったのよ?」

「なんだ、興味あるのか?」

「別に……」

「――プレスター・ジョン」

「プレスター・ジョン? あの、アフリカで王国を築いたって言う伝説の?」

「あながち伝説でもないかもしれん。魔女の口から、やつの名前を聞いた。その国に行けば、そいつに会えば、魔女や魔法、俺のこの力も、全ての謎が解けるかもしれん」


 珍しく、エンリケは真剣な表情で語る。それに応えるように、私も真剣に聞き入る。


「なんだ? てっきりまた、笑い飛ばしてバカにするのかと思えば、拍子抜けだな」

「――あると思うわ」

「あん?」

「その国、本当にあると思う」

「なんだよお前急に、悪いものでも食ったか?」


 エンリケはおどけて見せるが、気にせずに私も自分の信じるものを話す。


「私、行ってみたいの。黄金の国ジパング、バビロンの空中庭園、沈んだ都アトランティス。どれも伝説とされてるけど、私は知りたい。自分の足で、自分の目で知りたいの。この世界の全てを」

「ふっ。随分強欲な公女様だ」


 エンリケこそ、それを聞いてバカにするどころか、どこか嬉しそうな笑顔を見せる。


「ちょいと話しすぎたな。そろそろ日が暮れる。先に部屋に戻ってろ。少し飛ばすぞ」


 エンリケの言葉に辺りを見ると、いつの間にか周囲は分厚い霧に包まれている。そしてその霧の色は、赤みがかった黄色からどんどん暗くなっていた。

 それは同時に夕食の時間だと言うことを示す。お腹をさすりながらセバスチャンのもとに行くと、すでに夕食が用意されていた。


「わぁすごいわね。全部セバスチャンが?」

「いえいえ、マリア様の分はここにいるエマが作りましたよ」

「エミーやるじゃない。そうよ、その調子でどんどん役に立ってもらわないと」

「ありがとうございます、マリア様。カサブランカで食材を調達出来たので、今日は腕を振るいました」

「ところで、二人分しか用意されてないみたいだけど?」


 見たところテーブルの上には、二名分の食器しか並んでいない。


「坊ちゃんとマリア様の分でございます。我々は幽霊と骸骨なので、特に食事は必要ありませんので」

「あぁ、なるほど……」


 そう言いながら、私は自分の置かれた異常な状況を再認識する。


「坊ちゃんを呼んで参りますので、マリア様お先にお召し上がりください」

「じゃあ遠慮なく頂きます」


 私はスープを口に運ぶ。

 ……なんと言えばいいのだろう。一週間放置したミルクのような、ドロッとして鼻に抜ける不快な悪臭とひどい酸味。腐ってるんじゃないのかしら……そうね、一言で言えばクソ不味い。

 私はそれを吐き出すとエミーに言う。


「あなた、これちゃんと味見したの⁉」

「いえ、私幽霊なので味を感じないのです……お気に召しませんでしたか?」


 エミーが恐る恐る聞いてくる。こんなもの、とても人間の食べていいものじゃないわ。奴隷船のときのほうがまだマシよ。そうか、人間じゃないやつが食べればいいじゃない。

 私はセバスチャンの作った料理を一気に食べると、エミーの作ったそれを残して寝室に引き上げる。


 そして数分後、船内にエンリケの悲鳴が響き渡った。

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