第2話 従者をやめる日

 その夜、私がお風呂から上がり、長い廊下を歩いていた時のことでした。


 長い廊下といっても、私の家が広くて大きいというわけではありません。

 なぜならここは、士狼様の住んでいる御屋敷。実は私、士狼様の家に住み込んで生活しているのです。


 常日頃からそばにいてお仕えするのが、従者の務めですから。

 ひとつ屋根の下のお約束であるお風呂場でバッタリなんてことは今のところありませんが、士狼様のお宝シーンなら普段のお役目でたっぷり拝ませていただいてるので問題なしです。


 と、そんなことはどうでもいいのです。

 とにかく、士狼様の家の廊下を歩いている時です。廊下の奥から、大きな声が聞こえてきました。


「この声は、士狼様と御当主様?」


 士狼様と、そのお父上であるこの家の現当主様。

 二人の声はますます大きくなっていきます。しかもそれは、なんだか言い争っているようにも聞こえました。


「まさか、親子喧嘩でしょうか?」


 士狼様も御当主様も、これまで喧嘩したことが全くないわけではありません。

 退魔師としての方針を巡って意見の差異があったことは、何度かありました。


 気になりますが、それなら一介の従者が出る幕ではありません。

 その場を立ち去るべきかと思ったその時でした。


「そういうわけだから、もう咲夜をこれ以上、俺の従者にはしておけない!」


 えっ……


 士狼様。今、なんと仰ったのですか?

 聞こえてきた言葉が信じられなくて、気がつけば奥の部屋の戸を開けていました。


「士狼様、どういうことですか!?」

「咲夜。お前、聞いてたのか?」


 私の登場に、目を丸くする士狼様。

 立ち聞きした挙げ句に、お二人の話に入ってしまってすみません。

 それでも、何もしないわけにはいきませんでした。


「私を従者にはしておけないって、何か落ち度でもあったのですか? もしそうなら、何としても直します。だからどうか、士狼様の従者を続けさせてください!」


 士狼様の従者であること。

 退魔師の仕事や私生活をサポートし、狼の姿に変身した後は服をお届けすること。

 それは、私にとって役目であり生き甲斐でした。

 それを急に辞めるなんて、どうして納得することができるでしょう。


「違うんだ咲夜。お前は何も悪くない。悪いのは俺の方だ」

「士狼様が? いったいどういうことなのです?」


 士狼様に悪いところなんて、いくら考えても思いつきません。

 しかもそれで私が従者でいられないなんて、どうしてそんなことになるのでしょう。


「いいか、咲夜。お、俺は……」

「俺は?」


 一瞬、言い淀む士狼様。しかし次の瞬間、意を決したように叫びました。


「俺はもうこれ以上、お前にセクハラなんてしたくないんだーーーーっ!」


 …………へっ?


 あまりに意外な言葉に、何も言えなくなります。

 すると御当主様が、士狼様の言葉を引き継ぐように言いました。


「咲夜よ。実は士狼は、前々から言っていたのだ。脱ぎたての服を回収させ、全裸となった自分の元に持ってこさせる。従者の役目と称してこんなことをさせるのは、セクハラ以外の何物でもないと。お前を、そんな辛い役目からは解放させてやりたいと」

「そんな! 私はこの役目を辛いと思ったことなんて一度もありません!」


 むしろ役得だと思ってます!

 だけど、士狼様は言いました。


「咲夜、無理しなくていいんだ。だってお前、いつも俺に服を届ける時、顔を赤くしてるだろ。それに、時々目に涙を浮かべることもあった。そんな風になってるのに、平気なわけがないだろ」


 平気なわけがあるのです!

 顔が赤いのは、士狼様のあられもないお姿に大興奮してるから。涙を浮かべるのは、それを合法的に間近で見られるということに感動しているからです。


 これは、ハッキリ本当のことを伝えよう。

 そう思いました。しかし…………


「誤解です。私は……私は…………」


 そこまで言って、急に言葉に詰まります。

 その理由は、本当のことを話すのが怖かったから。


 だってそうでしょう。

 普段から士狼様の全裸を見て大喜びしていて、「ひゃっほーい! 役得役得ーっ!」と思っているなんて、とても言えません。


 そんな私の気持ちを知ってしまった士狼様はなんと思うか。

 もしかしたら、これまで築き上げてきた関係が壊れてしまうんじゃないか。

 そう思うと、怖くて何も言えませんでした。


「ほら。反論しないってことは、やっぱり本当は、今まで辛いって思ってたってことだろ。そんな役目を背負わせて、本当にごめん」


 頭を下げる士狼様。

 そんな、やめてください! 私は、士狼様に謝られるような資格なんてないのに!


「で、ですが士狼様。私が従者を辞めたらどうするのですか? 士狼様の従者は、私以外に適任はいないと思うのですが」


 そう言うと、ようやく顔を上げた士狼様は、少し困った顔をする。

 それは、御当主様も同じだ。


「私もそれを危惧しているのだ。士狼の従者は、士狼がいついかなる時に狼の姿になり、さらにその後全裸になったとしても、脱いだ服を速やかに速やかに届けなくてはならない。だが退魔師の事情を知り、学校で士狼のそばにいることができるのは、同じクラスの咲夜くらいだ。だから私も、咲夜の従者の任を解くのを簡単には了承できないのだ。すまない」

「けど、だからって咲夜をいつまでも俺の事情に付き合わせていいわけないだろ!」

「だが、そうしければお前は人前に全裸を晒すことになるかもしれん。猥褻物陳列罪で捕まることだって有りうる。我が家から犯罪者を出すわけにはいかん!」

「家のためかよ。そのために、咲夜を犠牲にするってのかよ!」

「家のためだけじゃない。お前のためでもある。お前は、そんなことで捕まってもいいのか!」

「────っ! よくはねえよ。けど、けどよ、やっぱりこんなの納得できねえよ!」


 あぁっ。士狼様と御当主様がますますヒートアップしていきます。

 やめて! 私のために争わないで!


 けど、それも長くは続かなかった。


「とにかく、そういうわけだから。咲夜、お前はもう俺の従者をやめるんだ」

「でも……」

「主としての命令だ。最後のな」

「そんな──!」


 命令。

 私たちは主と従者という立場でしたが、士狼様は私にお願いはしても、命令したことなんてほとんどありませんでした。

 それだけ、本気なのでしょう。


 御当主様も、そんな士狼様の心中を悟ったのか、何も言いませんでした。


 もしここで、私がお役目を大喜びでやっていると言えたら、せめて、嫌がってないとだけでも伝えられたら、事態は変わったかもしれません。


 けれど、できませんでした。

 臆病な私には、士狼様との関係を壊してまで、自分の気持ちを打ち明ける勇気がなかったのです。


「わ……わかりました」


 結局、震える声でそう言うことしかできませんでした。

 こうして私は、士狼様の従者としての役目を終えたのです。


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