第44話 大勝負

 朝。

 登校する僕は、一世一代の勝負を仕掛ける気でいたので、教室へ向かうだけで、いつもの比ではない緊張で満たされてしまう。


 けれど、陽香さんが教室に入ってきてショートホームルームが始まった時には、すでに凪のような落ち着いた気分でいられた。

 担任の陽香さんが簡単な連絡事項を告げて終わるのがいつものショートホームルームだ。一応は担任教師への質問や要望の時間があるのだが、女帝の陽香さん相手にそんなことができる勇者はいない。いつも予定より早く終わってしまい、陽香さんは授業を担当している教室へ向かっていくのが常だった。


「先生、いいですか?」


 だから、僕が挙手して立ち上がった時は、教室がざわついた。

 クラスで一番目立たないぼっちの男子が、女帝に意見をしようというのだ。

 ましてや、今の僕は陽香さんとの熱愛疑惑をかけられている渦中の人。

 注目されてしまうに決まっている。


「河井くん。何かしら?」


 女帝な陽香さんは、僕との付き合いなんてなかったかのように振る舞う。最近ではお馴染みの態度だ。


氷屋間ひやま先生、みんなに言い忘れていることがあるんです。それを伝えないといけないと思って」


「私は何も言い忘れたことなんてないわ」


「注意事項のことじゃありません。最近学校で広まっている噂のことですよ」


 陽香さんの顔色が微かに変わり、クラス内の空気もより緊張感で満たされたものになる。


「くだらないことを言うつもりなら、もう黙って座りなさい。粛清するわよ?」


「座りません。僕と氷屋間先生が付き合っているという噂について、まずはこのクラスのみんなに真実を話す必要があると思うんです」


「あなた――」


 明らかに顔色が変わる陽香さんは、力づくで口封じをするためか、僕のすぐ近くまで距離を詰めてくる。


 自分が何を言おうとしているのかわかっているの? そう詰問するかのような視線が刺さる。

 当然、わかっている。

 陽香さんとの疑惑を釈明し、元通りの生活に戻るため、やらないといけないのだ。


「氷屋間先生、あの時は、本当にお世話になりました!」


「えっ?」


 突然頭を下げた僕に面食らう陽香さん。

 それはクラスメイトも同じだ。


「僕、先生のおかげで救われたんですよ。こうして今も普通に登校できているのも、先生のおかげです」


 え? どういうこと? とざわつくクラスメイト。


「高校生になって新しい生活が始まったことと、慣れない一人暮らしで、僕は精神的にかなり負担がかかっていたんです。具合がよくないまま登校を続けていて。ぼっちの僕は、誰に相談すればいいかわからないまま抱え込んで、限界が来てしまったんです。登校しないといけないのに、家の玄関を出ることすらできなくなって……」


 ざわめきが静かになり、神妙に聞こうとする雰囲気になっていた。


「そんな時、僕の異変を察して、わざわざ家まで訪ねてきてくれたのが氷屋間先生ですよね。僕が何に悩んでいるのか、何に苦しんでいるのか、ちゃんと聞いてくれたんです。学校に遅刻しそうになるギリギリまで。なんか噂では、恋人扱いされるような仲睦まじい二人とか勘違いされていますけど、実際はそんな雰囲気なんてなかったんですよ。付き添ってくれたようなものですから」


「…………」


 陽香さんは、黙って僕を見ている。いつ飛びかかって口封じをしてくるかちょっと心配だったけれど、今のところは強硬手段に出てきそうな気配はない。


「それが、あの時、僕と氷屋間先生が一緒に登校していた理由です」


 僕は、クラスのみんなを見渡すようにして言った。

 なんだ、そんなことだったのか……と、つまらなさそうにするクラスメイトが目立つ。噂の内容に比べて実にくだらない『真実』だから。


「だいたい、噂のことを抜きにして、僕みたいな人が氷屋間先生と恋人になれると思いますか? イメージ湧く? 湧かないですよね」


「湧かない」「湧かないな」「ありえないもんな」「ありえない」「じゃデマか」


 矢継ぎ早に飛び出てくる、クラスメイトによる同意ラッシュ雨あられ。

 ……思った通りの反応ではあるのだけれど、実際自分のぼっちが説得力ある様を目の当たりにすると、なんだか複雑だ。


「……結局、そういうことです。氷屋間先生が、自分のクラスの生徒のために頑張ってくれたのに、間違った情報が真実として定着してしまうのが嫌で、黙っていられずにみんなの前で言わせてもらうことにしました。氷屋間先生は厳しいですけど、優しい人なんですよ。それだけです」


 教室はざわついたままだ。

 陽香さんに統制されていたこの教室がこれほどの喧騒に包まれたのは初めてのことに違いない。


 僕のすぐ近くに立っている陽香さんは、生徒のざわめきを止めようとする素振りを見せることなく、僕をじっと見ている。

 陽香さんには、事前に何も伝えていない。

 完全な、ぶっつけ本番だ。

 僕に合わせてくれることを望んでいた。

 そして、ここで僕に合わせてくれることが、僕の隣人として戻ってくる意思があるかどうかの返答でもあった。


「静かに」


 陽香さんのたった一言で、教室は水を打ったように静まり返った。


「時間を浪費したわ」


 教壇へ戻った陽香さんは、大きな音を立てる勢いで教卓に両手を着く。


「これ以上、くだらないことを口にするようだったら、その時点で即粛清だから」


 まるで、これから生徒同士で殺し合わせようとするかのような殺気をビンビンに放ってくる。


「他に、なにかあるかしら?」


 ショートホームルームのたびに、担任である陽香さんが連絡事項を一通り伝え終えた時のお決まりのセリフ。

 誰も手を挙げる生徒はいない。

 これもまた、いつもの光景だ。


「では、ホームルームは終わりにします」


 スタスタと教室を出ていく陽香さん。

 去った途端に、安堵の表情を見せるクラスメイトたち。


「氷屋間先生、面倒見よかったんだね」

「怖いけど、授業は丁寧だし」

「熱心なんだよね。怖いけど」


 そんな声が、そこかしこから聞こえてくる。

 陽香さんから、僕が欲しかった返答をはっきりとしたかたちで得ることはできなかったけれど。


 少なくとも、いい変化はあった。

 今後は、陽香さんを単なる横暴な教師という見方をすることは減るに違いない。

 あとは、僕の目論見通りに事が進んで、無事に噂が収束してくれることを願うばかりだ。

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