第37話 登校RTA

 慌てて支度をして家を出て、駅のホームに駆け込む。

 ちょうど到着した電車に飛び乗ろうとした時、横に僕と同じことをしている陽香さんがいた。


 一度電車に乗ってしまったら、いくら焦ろうとも意味はない。

 僕と陽香さんは、満員電車の中、出入り口に近い位置に立ちながら、朝の失態を悔いている。


「……ああ、教師生活三年目、初めての遅刻だわ」


「僕だって、この時間じゃ間に合うかどうかわかりませんよ」


 電車に乗っている間はいくら焦ろうとも無意味、と割り切り、僕と陽香さんは一旦クールダウンしていた。


「あなたは生徒だからまだマシよ。社会人に遅刻は許されないのよ」


「大人だって遅刻をする時くらいありますよ。陽香さんは普段は真面目過ぎるほど真面目なんですから、たまには遅刻したっていいと思いますよ」


「あー、またあなたはそうやって甘やかす」


「ていうか、寝坊の件は僕も悪いんで。アラームをしっかり掛けておけば、陽香さんだってもっと余裕を持って出勤できたんです」


「仕方ないわよ。私だって……」


「どうしたんです?」


「今朝は、いつもよりぐっすり眠れた気がするの。人の家なのに。自分のベッドでも、枕でもないのに。すごく気を楽にして眠ることができたわ」


「そういえば僕も、今朝は妙に疲れが取れていたんですよね」


「まるで自分に合ったいい抱きまくらでも使っていたみたいねえ」


「そうですね、温かくて柔らかくて、いい匂いまでして……って」


 すぐ横をちらりと見ると、陽香さんまでうつむいて赤い顔をしていた。


「……もう、この話題は終わりにしましょう」


「そうね。それがいいと思うわ……」


 追求するべきじゃない。

 寝ぼけて僕のベッドに潜り込んできた陽香さんと、抱き合うようにして眠っていた可能性を考えないといけなくなってしまう。


 その上、今朝の陽香さんはスウェットの下はノーブラでノーパンだったわけで……。


 思春期まっしぐらの僕の男子的な部分がスパークしてバカになってしまう。


「陽香さん、朝食食べました?」


 誤魔化したい僕は、話題を変えた。


「いいえ。そんな時間なかったわ」


「僕もです。でも陽香さんの場合、それじゃ授業する元気持たないでしょ。僕のバランス栄養食を分けてあげますから、職員室で食べてくださいね」


「それじゃあなたに悪いわ」


「まあそう言わずに。陽香さんが辛そうだと僕も辛いですから」


「……この借りは、近いうちにちゃんと返すわ」


「楽しみにしてますね」


 制服のポケットからバランス栄養食の箱を取り出して、陽香さんに渡す。


「それにしても、相変わらずこの時間帯は混んでますね……」


 おそらく今が満員電車のピークなのだろう。

 普段の僕は、朝のこの苦行を極力回避するために、余裕を持って登校していた。


「そうね。普段私が乗る時間帯はもっと空いているわ。それに……」


「それに?」


「いいえ、なんでもないわ。――つっ!」


 陽香さんがつんのめるようにこちらへ倒れてくるので、僕は慌てて抱きとめる。

 電車が揺れたせいで、バランスを崩した乗客に押されてしまったのだろう。


「陽香さん、立ち位置を入れ替えましょう。僕の方、扉の脇へ来てください。僕が壁になりますので」


「いいの?」


「僕は陽香さんの前でカッコつけるたびに気持ちよくなってしまう人間ですから。さあ、僕を気持ちよくさせてくださいよ」


「語弊が多すぎる言い方をするのね」


 思ったよりすんなりと、陽香さんは扉の脇へと移動してきてくれた。

 僕が壁に両手を着く姿勢になったせいで、陽香さんをダブル壁ドンする感じになった。


 すぐ近くに陽香さんの顔がある。小柄な僕と長身の陽香さんでは背があまり変わらないから、壁ドンスタイルになればどうしたってこうなってしまう。


 こんな時でも、きっちりメイクはしてきたようで、いつも学校で見かける凛とした陽香さんの顔になっていた。僕は雑に顔を洗って済ませただけなのに。


「ありがとう。なんだか気持ちが楽になったわ」


 安堵の微笑みをする陽香さん。

 家の外でこんな気の緩んだ顔をするのも珍しい。


「普通の車両に乗るのは久々だったから、なんだか緊張して」


「じゃあ普段は女性車両に?」


「ええ。以前ちょっとしたことがあったの」


「ちょっとしたこと?」


「たいしたことじゃないわ」


「もう僕に甘えるとかどうとか気にしなくていいですからね。なんでも言ってくださいよ」


「……教師になったばかりの時、出勤のために電車に乗ってたら痴漢に遭ったことがあって」


「わかりました。そいつを見つけて腕一本もいじゃいましょう」


「いいのよ。そいつは私が駅員に突き出して警察行きにしてやったから」


「さすが陽香さんだ。お手柄ですね。でも陽香さんに許可なく触れて不快にさせた罪は決して消えない」


「今日のあなたは怖いわね」


「僕だって怒る時はありますよ」


 陽香さんに乱暴狼藉を働く凶悪犯は始末されてしかるべきなのだから。


「とにかくね、別に私は乗る車両なんて女性専用だろうが共用だろうがどこだっていいと考えていたのだけれど、一度そういうことがあると警戒するわ。二度と不快で面倒な目に遭いたくなかったから、満員電車の時間帯は普通車両を避けるようになったのよ」


「でも今日は……」


「そうね。慌てて飛び乗ってしまったからね。でも、あなたが守ってくれるおかげでメンタルは大安定だわ」


 またも電車が揺れた。

 僕はたたらを踏み、前のめりになったことで、陽香さんの耳元に顔を寄せるような感じになってしまう。


 バランスを崩したのは、僕がひ弱だったからじゃない。

 電車が揺れると同時に陽香さんに、陽香さんに腕で引き寄せられてしまったからだ。


 密着しすぎてしまわないように、腕の力で陽香さんとの間の隙間を確保していたのに、ぴったり密着するような格好になってしまった。


「知らない人と密着しすぎるとまた落ち着かなくなってしまうから。それなら、慣れたあなたの体の方がいいわ」


「誤解を生む言い方ですね。一応信頼の証として受け取って喜んでおきますよ」


 僕は陽香さんを不安にさせるまい、という気持ちで、恥ずかしさを耐え忍んで、陽香さんに逆らうことなくぴったりと密着することにした。


 次の駅が学校の最寄り駅だから、あと一駅でこの満員電車から解放される。

 けれど、逆にいえば、あと一駅分は陽香さんとこうしていないといけないのだ。


「……ねえ河井くん」


 姿勢の都合上、陽香さんが話しかけてくると耳元で囁いているような感じになってしまう。寝起きであれだけ慌てていたというのに、陽香さんからはお風呂上がりのような爽やかで甘い香りがする。いったいどうやって時間を捻出したのだろう。


「あなた、今朝私のおっぱい揉んだわよね?」


「…………」


 不意打ちに僕は何も言えなかった。

 バレてる。

 なぜ?


「部屋に戻ったあと、ずっと気になってて、胸に残ってた感触を思い返してしたの。そうするとね、あなたに腰とか脚を揉まれた時のことがパッと思い浮かんだのよ。力の加減とか指の感触が完全一致だったわ。証明終了よね」


「まさか僕、ここで痴漢として駅員に突き出される流れですか?」


 陽香さんを不安にさせた憎き痴漢と同じことを……僕がしてしまっていたなんて!


「違うわよ。確認したかっただけ。あれは私も悪いわけだし」


「触るつもりはなくて。スマホを手探りしてただけなんですよ……」


「モヤモヤがスッキリしたわ。だからあなたはビンタで罰を受けたがっていたのね」


「はい。実は」


「今更咎めることもないけれど。……私だって、もう気にしてなから。お互いに朝のことはもう忘れましょう」


「……ありがとうございます」


「あなたにはお世話になってしまっているしね」


 お優しい陽香さんは、偶然のことだったとはいえ、僕の痴漢的な行為を許してくれた。


 やがて、学校の最寄り駅に到着する。

 時間はギリギリ。間に合うかどうかは、ここからどれだけ走れるかが勝負になってくる。


「陽香さん! 降りましょう!」


 僕は陽香さんを先導して、最寄り駅のホームへと降り立つ。


「そうね。急ぐべきだわ」


 電車を降りたあとの僕らの行動は迅速だった。

 登校RTAが如くホームから飛び出し、学校へまっしぐら。


「じゃあね! また教室で!」


 昇降口で僕を見送り、息を切らせながらも陽香さんは教職員用の玄関口へ向かっていく。


 靴箱から上履きを引っ張り出しながら、僕は大きく息を吐きだして安堵した。

 ギリギリで始業のチャイムには間に合う時間だ。


「とりあえず一件落着……」


 僕は、主人公たちが大きな試練を乗り越えてハッピーエンドを迎える映画を一本観終えたような気分になって、教室へと続く階段を登った。

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