第35話 美人教師と明かす一夜 その1

 女帝・氷屋間陽香が誕生した衝撃的な理由を聞いたあと、僕は陽香さんを相手にどう振る舞えばいいのかわからなかった。


 慰めたい気持ちはある。

 いつもなら、そこまで気負わなくたっていいんですよ、なんて簡単に言えていたはずだ。


 けれど、陽香さんは安易な気持ちで女帝になったわけではない。

 真剣に悩み苦しんで出した答えを、僕のたった一言でひっくり返せるとも思えなかった。


 だから、蒸し返すような会話はできなかった。


「今日の陽香さんはお客様なんですから、遠慮しなくていいんですよ?」


「平気よ。ここまでしてもらって悪いから」


「そうですか。男子高校生のにおいが染み付いたベッドは使いたくありませんか……」


「そういうことじゃなくて! 私、一応あなたより年上なのだから、なにからなにまでお世話になることはできないわ」


「ホラー映画が怖くて一人でいられなくなっている時点で年上の威厳なんてほぼゼロだと思いますけど」


「う、うるさいわね! それ以上言ったらアレよ、アレするから」


「粛清ですか?」


「違う。泣いてやるのよ」


「もうなりふり構ってない感じじゃないですか……わかりました。もう何も言いません」


 お泊りするにあたり、僕は客人として陽香さんにベッドを提供しようとした。


 それでも陽香さんは大人としての矜持を守りたかったようで、家主を差し置いてベッドを使うことを良しとせず、座布団とクッションでつくった即席のベッドで眠ろうとしている。


「今度は陽香さんも安心してお泊りできるように、ダブルベッドに買い替えておきますね」


「今日だけだから! もうあなたに迷惑をかけることは二度とないわ」


 陽香さんはぷりぷりしながら、毛布を被り直す。


 陽香さんは、可愛らしい色合いのスウェット上下に着替えていた。デザインやサイズをろくに考えることなく、レディースという一点だけで陽香さん用に購入したものだ。ちょっとサイズが大きくてダボッと感があるけれど、ピッタリサイズで体のラインがわかってしまうよりはいい。


 ちなみに、お風呂上がりの陽香さんはノーメイクだったのだけれど、顔立ちが幼く見えるだけで美人なことに変わりなかった。でも、陽香さんとしては女帝のイメージを保つためにも、気が強く見えるメイクにするのは大事なことなのだろう。理想の姿として生徒たちと渡り合うために『武装』として。


「ていうか、もうモンスター殺人鬼は実在しないってわかったのなら、自分の部屋に戻るのもアリなんじゃないですか?」


「は? まだ怖いわよ」


「怖がってる人の態度じゃない気がするんですけど……」


「今は落ち着いているけれど、悪夢でうなされた時どうするの? ガバっと起き上がった時、私一人しかいなかったら、その恐怖をどうやって消せばいいの?」


「まあ、泊めると言った以上、追い返すようなことはしませんが」


 外はまだ嵐のようで、風が轟々と鳴っている。

 予報によれば、朝になれば天気が回復するらしいのだが、大丈夫なのだろうか?


「寝る場所のことはもういいでしょう? 早く寝てしまいたいわ。朝を迎えて安心したいもの」


「そうですね、僕も同感です」


 そうだ、寝てしまうに限る。

 朝を迎えれば、陽香さんに対するこのもどかしい気持ちだって楽になるに違いない。


 いわば、未来の僕への丸投げだ。


「じゃあ電気消しますね」


 僕は電灯のリモコンに手をかける。


「待って。私いつもオレンジ色の明かりを灯してくれないと不安で眠れないの」


「子どもみたいですね」


「子どもの時からの習慣なのだから仕方がないじゃない」


 膨れ面になる陽香さん。


「……悪いわね。また。あなたの家なのに。私はあなた相手だとどこまでも甘えてしまうわ」


「まあ、それでこその抜きフレですから」


「あなたに悪いから、その抜きフレっていうそこはかとなくいやらしい響きがある言葉も不問にしてあげる」


「ありがとうございます。でも、陽香さんはわがまま言っても気にしなくていいですよ。なんかさっきの話を聞いてると、やっぱり陽香さんは背負い込んじゃうところがあるってわかったんで。僕の前では楽にしててください」


「あなたは本当に忍耐強いわね。私とあなたが逆の立場だったら、こんな女めんどくさいってなって愛想尽かすわよ? 高一だと思って侮っていたけれど、もしかしてその年ですでに壮絶な人生経験でもあるのかしら?」


「そんなものはありませんよ。ごくごく普通の男子高校生です。一人暮らしをしているのも、家族がいないわけでも揉めてるわけでもなくて、単なる好奇心ですから」


「納得行かないわ」


 陽香さんは毛布を跳ね上げる。ああ、せっかく眠る体勢に入っていたのに。


「じゃあなんなの? あなたは自然とそんな広い心を持てるの? ごく普通でもなんでもないでしょ。普通を自称しているだけのヤバイやつだわ」


「違いますよ。僕だって、そんな心が広いわけじゃないです。たまたま僕が欲しくて願っていたことに、陽香さんが当てはまってくれたんですよ」


「私が?」


「実は僕、一人っ子なんですよ」


「それがどうしたの?」


「昔から、お姉さんが欲しかったんです」


「…………」


「姉がいるって、こんな感覚なんだなって思って。ほら、姉ってたとえ外では美人で優しいと評判でも、家ではわがまま放題で弟をいじめてるなんてことがザラですよね? あんな感じです」


「じゃあ何? あなたは私を仮のお姉さんだと思って接していたということ?」


「まあ、そうなりますねえ」


「なんだ、つまらないわね。てっきり私のこと……」


「陽香さんのことがどうかしたんですか?」


「な、なんでもないわ! とにかく、あなたは今後、女の子を勘違いさせるようなことは控えた方がいいわ。刃傷沙汰になりたくなかったらね」


「なんだかずいぶん物騒ですね……。でも僕は刃物持ち出して争いになるほどモテるようなことはありませんので」


「そういうこと言って自覚がない人が一番危ないのよ」


「じゃあ陽香さんが恋人のフリをしてくださいよ。そうすれば危ない女の子も寄ってきませんから」


「気が向いたらね」


「よかったです。『絶対イヤ』って言われなくて」


「……ぜ、絶対イヤに決まってるでしょうが!」


 陽香さんは、毛布を翻すように被って、イモムシのようになってしまう。


「あら、寝るんですか。じゃあ電気消しますので、おやすみなさい」


 陽香さんから言われた通り、電灯をオレンジ色にする。


 僕は陽香さんに肝心なことを伝え忘れていたし、そもそも伝えることができるはずもなかった。


 本当に『姉』としてだけしか見ていないのなら、陽香さんの一挙手一投足にここまでドキドキして気持ちが振り回されることはない。


 家族愛的なものではなく、異性としてもちゃんと見ているわけで。

 もちろん、それを口にすれば告白になってしまうから、口に出すことはできない。


 これまで僕が陽香さんに対して気がある素振りを見せる言動ができていたのは、陽香さんは『教師』であろうとする意識が強いため、僕の言葉なんて真に受けないことがわかっていたから。


 陽香さんは僕に甘えてしまうと言っていたけれど、僕だってちゃんと陽香さんに甘えてしまっている部分はあるのだ。


 だから今日のお泊りだって、言ってしまえばお互い様だ。

 淡いオレンジ色の明かりが灯り、普段と違う色に染まった天井を見上げながら、僕は目を閉じる。


 美人の異性とこれまでにないくらい密な距離感で接していたことは、嬉しいことではあったけれど、不慣れな僕にとってはプレッシャーで疲れてしまうことでもあったようだ。


 目を閉じてから間もなく、心地よい眠気が訪れるのだった。

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