第34話 陽香さんと浴室で二人きり その2

 僕の右耳から、サーッ、とシャワーが流れる音がする。


 それと同時に、水流がぱちぱちと肌の上で弾ける音が聞こえる。

 僕は本当に、陽香さんがシャワーをしているすぐ横にいて、蓋をしたトイレの上に座っていた。


「自分から言い出したこととはいえ、まさかこんなことになるとは……」


「なにか言った?」


「いいえ、何も。ちょっとした独り言です」


 陽香さんの声がしたとはいえ、安易に振り向くことはできず、僕はずっとうつむいたままだ。


 このアパートに備え付けられているシャワーカーテンは白い色で薄く、明かりの加減でカーテンの向こう側にいる人の影が映ってしまうのだ。


 どうせ影だから、と油断していたのだが、陽香さんが腕を上げた時に胸元の山なりが映り込んでいるのを見た時、思いの外動揺してしまった。


「河井くん? いる? いるわよね? なにか言って」


「ちゃんといますよ」


「いなくなったら、泣くわよ?」


「安心してください。女性を泣かせる気はないので」


 返事がなかったり、少しでも気配が消えると、陽香さんは不安そうにする。


 裸の美人教師がすぐ隣りにいる。男子としては垂涎の状況にいるというのに、のんきに幸せに浸れない状況が存在するとは、今まで想像もできなかった。


「ねえ、お湯を張っていい? 私、しっかり湯船に使ってリラックスしないとよく眠れないのよ」


「はい、どうぞ……」


 ここまで来て、断るわけにもいかない。もう好きにしてくれ、という気分だった。


 しばらくシャワーの音が響き、浴槽を十分な湯が満たしたのか、やがて止む。


 それまで水が流れる音で満たされていた空間から、突然音が消え、静寂が訪れる。


 すぐ隣から、陽香さんの息遣いすら聞こえてきそうだ。


「あ~、この温かさが冷えた体に染み渡る~」


「ずいぶん堪能してますけど、すぐ隣に教え子の男子がいるってことを忘れないでくださいね」


「わかってるわよ。巻き込んじゃって悪かったわ」


「頼ってくれるのは嬉しいですよ。わがままを聞くのも嫌いじゃないです。ホラーが苦手なのも可愛らしいと思います。でも、お泊りとかシャワーシーン鑑賞会とかは僕には刺激が強すぎるのでちょっと困ります」


「そうね、いくらなんでも混乱しすぎてまともな判断力を失っていたわ」


 入浴のリラックス効果で、陽香さんは落ち着きを取り戻してくれたみたいだ。


「でも、あなたの前だと、ついわがままになってしまうのよね。どうしてかしら? 私はもっと、自分のことを強く律することができる人間だと思っていたわ」


 ちゃぷっ、と陽香さんが湯船から腕を出したような音がする。


「僕としては、そういうポンコツ……いえ、気負っていない陽香さんを見せてくれるのは全然嬉しいんですけどね。抜きフレとしている意味があったみたいでなによりです」


「……河井くんがいる意味はちゃんとあるわよ。息抜き友達云々とか言い出した時は不安だったけれど、私は前よりずっと気を休められるようになったと思うわ」


「……前から訊きたかったんですけど」


 これまでは、下手に陽香さんに踏み込むのはよくないと考えていて訊けなかったけれど、この非日常的な状況が僕を後押ししてくれた。


「陽香さんは、どうして教室ではあんなに厳しくするんですか? 陽香さんならもっと自然なかたちで理想的なクラスをつくれると思うんですよ。美人で仕事熱心な教師なんて、それだけで好きになる人がいっぱいいるんですから」


「……それがダメなのよ。あなたも知っての通り、私は推しへの愛が強いことだけが取り柄の地味なメガネオタクだったわ。大学で教育学部に進学して、変わらない推しへの愛に加えて、一般的な女子大生に擬態するスキルを身に着けて、知らない内にエントリーされていたミスコンで一位になってしまったこともあるけれど、根っこの部分は変わっていなかったの」


「別に変わる必要もないと思いますよ」


「あなたは本当に私を甘やかすわね。たまに大人で教師だということを忘れてあなたになにもかも全部任せてダメ人間になってしまいたい欲求に駆られることがあるわ。流石にそれはしないけどね。ともかく、見た目だけ取り繕った内気な人見知りの私でも、大学三年生になる頃には、教職志望者として教育実習にいかないとならなくなったのよ」


「教育実習って自分が卒業した学校に行くんですよね? じゃあ陽香さんはあの……」


「そうよ。バカとクソとわからず屋でいっぱいな自称名門女子校へ行くはずだったの。でも行かなかったわ。もちろん、嫌な思い出がある母校になんか行きたくなかったから」


「でも、そういう理由で教育実習をしたくないとは言えないですよね?」


「だから教育実習先を変えてもらったのよ。原則として母校で実習をするものだけれど、それはその学校の卒業生という保証があって、一定の信用を置けるからなの。だから身元を保証してくれる別の何かがあればいいわけ。幸い私には親しい親戚に高校の校長先生がいてね。そこへ実習に行けるように取り計らってもらったのよ」


 ちゃぷちゃぷと湯が揺れる音がする。

 遊んでいるわけではなく、自分の過去を話すのにストレスを感じているのかもしれない。


「高校時代は黒歴史だけれど、教職への憧れはあったわ。公務員として安定した収入を得ることができて、夏と冬には長期休暇もある。社会人になっても推し活をするのに十分な時間を確保できると思ってたのよ。……学生の頃はね。だから、実習だって前向きに取り組もうとした」


「まさか、教育実習の時点で今のスタイルを?」


 思わず陽香さんの方を振り返りそうになって、そういえば陽香さんは今全裸なのだということを思い出し、慌てて扉の方へ顔を向ける。


「いいえ。違うわ」


「そ、そうですよね。ちょっと安心しました」


「でも、普段の私のままではいなかったわ。それじゃ教師としてやっていけそうになかったから。……私なりに、いい教師になろうとしたの。『親しみやすい友達のような先生』を目指していたわ」


「……今と正反対」


 つい、ぽつりと口から出てしまった失言は、幸い陽香さんの耳に届くことはなかったようだ。


「でも、そうか、陽香さんは友達みたいな先生になろうとしていたんですね。美人で親しみやすいお姉さん教師がやってきて、生徒は大喜びだったでしょうね」


「初めのうちはね。上手くいっていると自分でも手応えがあったわ。授業だって、思ったより上手くこなせたし」


「陽香さんは今も授業の腕前は完璧ですから。その時から片鱗があったんでしょうね」


「私もそう思って、調子に乗ってたところがあるみたい。学校へ行くのが楽しくてね、休み時間や放課後は生徒たちが話しかけてくれるから、よくおしゃべりをして楽しんだわ。私ってこんなにコミュニケーション強者だったかしらってくらい楽しく話せたの。私が担当することになったクラスはいい子たちが多かったからかも。高校時代のバチクソ不快な連中とは一線を画していたわ。同じ人類とは思えないくらい」


 そんなにも違いがあるのか……。いや、陽香さんの場合、過去のトラウマのせいで必要以上に当時の同級生が悪く印象付けられているという可能性も。


「なんだ。どんな深刻な話になるのかと思ったら、とてもいい経験をしたみたいじゃないですか」


 安堵する僕は、気楽に言った。

 教育実習が最良の結果で終わったのなら、女帝化した理由はどこにあるのだろう?


「でもね、私はいい気になって、そこがどんな学校なのか、すっかり頭から抜け落ちていたのよね」


 安堵していた気持ちが急落するくらい、陽香さんの声音により深刻なものが混ざり始める。


「共学だったのよ。その学校は」


「そういえば陽香さんは女子校出身……」


「そうよ。私には、高校生女子だけじゃなくて、高校生男子を相手しているという感覚がすっかり抜け落ちていたの。私が目指した『親しみやすい友達のような先生』になるには、もちろん女子だけを相手にしていてはダメで、男子にだって同じように接しないといけない。だから私は、男子にもできるだけ親しく接したわ。年頃の子はきっとこういう教師が好きなんじゃないかと思ってね」


 嫌な予感がしてきたぞ……。


 女子大生で、美人で、親しみやすい……そんな三拍子揃った女性に優しくされたらどうなるか。バカな男子の一人である僕にはわかってしまう。


「サークラ状態に……なってしまったんですね?」


「ええ。教育実習の間、私は男子生徒から告白に次ぐ告白を受けたわ。……別に、それだけならどうにでもなるのよ。やんわり断ればいいだけだから。でも、告白したという事実が、同じクラスの女子に伝わったら? そして、それを耳にしたのが、私に告白した男子のことを好きな女子だったとしたら?」


「地獄ですねえ……」


「そうなの。男女仲良く雰囲気もよかったクラスが、教育実習の最終日を迎える頃には、男女で疑心暗鬼になってギスギスする息苦しいクラスに変わってしまっていたわ……。お別れする時は、私のわがままを受け入れてくれた学校や指導してくれた先生に恩を仇で返すかたちになって申し訳なかったし、なにより生徒に申し訳なかったわ」


「それは、大変でしたね……」


 僕は、それくらいしか言葉を掛けられなかった。

 陽香さんの苦労に対して、無理にわかったような口を効いたところで、実際その場で思い悩んだ彼女に届くことはないだろうから。


「その時思ったのよ。私のコミュ力では、『親しみやすい友達のような先生』を目指すのは無理。だから決めたの。教師になったら同じことを繰り返してしまわないように、理想の姿とは違っても、私が原因で生徒間で揉め事が起こすのは避けようって。だから、怖い教師を目指すことにしたの。少なくともそれなら、生徒間で揉めることはないから」


 もはや陽香さんの教師像には、悲壮感すら漂ってしまっていた。


「厳しくしすぎて嫌われることがあっても、その対象は私」


 ざぶん、と浴槽に体を沈ませる音がする。

 やがてまた、ざばりと体を湯の外に出す音がして、長い吐息のあと。


「それでクラスの平和が保たれるのなら、安いものだわ」


 狭い浴室なだけに、陽香さんの言葉が何度も反響した気がして、重みが何倍にもなって僕にのしかかってくる。


 陽香さんは自分を低く見積もり過ぎだ。


 もう少しだけ、ほんの少しだけ、生徒への接し方のバランスを取るだけで、陽香さんが当初望んでいたものなんて簡単に手に入るのに。


 ちょっと厳しいけれど美人で、生徒のことを考えていて、授業も丁寧にこなす教師なんて、人気が出るに決まっているのだから。


「悪かったわね、私の話はこれで終わり。わがままに付き合ってくれてありがとう。あなたはやっぱり私をどこまでも甘やかしてくれるから、話すつもりのないことまで話してしまったわ。……着替えたいから、出て行ってくれる?」


 僕は、素直に立ち上がって浴室を出る。


 その場に留まっていたら陽香さんが永遠に着替えられないし、掛けるべき気の利いた言葉だって持ち合わせていない。


 浴室を出た僕は、すぐ後ろで着替える陽香さんを妄想する余裕すらないくらい、放心状態になってしまうのだった。

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