第32話 陽香さんは怖がり

 バイトが終わる午後十時頃になっても、雨はまだ降り続いたままだった。

 空は分厚い雲に覆われて、ただでさえ暗い夜の空が真っ暗闇だ。


 この調子だと、雨脚はこれから強くなりそうだし、雷が落ちる可能性もある。

 明日、電車が止まってしまわないといいけれど。


 寄り道しないで帰ろう。


 そうして、いつもより早足で家に帰ってきた時だった。

 玄関で傘を畳んでいると、インターホンが鳴った。


 それも、何度も。


 何事だろう? と不安に思いながら、ドアノブに手をかけて扉を押すと、扉が開き切る前に白い手がぬっと伸びてきて、僕は思わず仰け反りそうになった。


 風量が増して、ごうごうと不気味な音を立て始めていた時だったので、この世ならざる者が召喚されてしまったのではと一瞬焦るのだが。


「か、河井くん、今帰ったのね?」


 白い手に次いで扉からにゅっと現れたのは、この世ならざる美しい顔の持ち主。


 相手はおばけの類いではなく、見慣れた陽香さんだった。


 ただし、なにかに追われているような焦燥感があるのが気になるところ。


「ど、どうしたんですか? とりあえす中に入ってください!」


 陽香さんのただならぬ様子から、僕も焦ってしまう。

 そもそも陽香さんは以前、ストーカーに付け狙われていたことがあるのだ。


 この取り乱しようは、僕がいない間にとても怖い目にあったに違いない。

 陽香さんの肩に手を回すと、いつになく冷たかった。


「私……私、つい強がってしまったの!」


「強がってって……どういうことですか?」


 僕は陽香さんの話に耳を傾けながら、部屋に入るよう促し、しっかり施錠をする。


「口にするのも恐ろしいわ……!」


「落ち着いてください。今、暖かい飲み物でも出しますから」


 僕は、応急処置として陽香さんの肩に毛布を被せ、ココアの用意をするべく台所へ向かう。


 この取り乱しよう、尋常じゃないぞ……。


「一人にしないで!」


 毛布を跳ね除けて、勢いよく僕の腕に抱きついてくる陽香さん。


 薄着の陽香さんなだけにお胸の感触がよりリアルに……って、今はそんな場合じゃない。


「わかりました、一人にはしませんから。ほら、抱きついてくれていていいですよ」


「うん」


 言われた通り、陽香さんは僕の背中に張り付くように抱きついてくる。

 普段の僕なら、恋人同士と言って差し支えない距離感に興奮することしきりだろう。これがいつもの平和な時間じゃないのがとても惜しい。


 いつもの陽香さんなら、ここまで僕に甘えていると捉えられるようなことはしないはず。抱きついてくれていいですよ、だなんて僕が言おうものなら、気持ち悪わねえ……と冷たく一蹴されてしまうはずだ。


 これはよほど深刻な事情があるに違いない。


 最悪の場合に備え、警察への通報を頭に入れておく。

 身動きが取りにくい状況の中、ココアを入れ終えた僕は、背中にくっついた陽香さんを連れて部屋の真ん中まで戻ってくる。


「陽香さん、何があったんですか?」


 居住まいを正しながら、僕は訊ねる。


 陽香さんは、僕の目の前ではなくすぐ横にいて、一息つくようにココアをすすると、話し始めた。


「あの、怖い人に追われてたのよ」


「怖い人……ですか? どんな?」


「すごくデカくて、ムキムキな人……」


 やっぱり。ヤバいやつに付け狙われているのか。


 前回は痩せ型の男だったから僕でも対処できたけれど、今度はムキムキときたものだ。僕は小柄だから、どうしても体格差では不利。柔よく剛を制す柔道技でも限度がある。


 その不届き者が再襲撃してきた時、僕で守りきれるかどうか……。


「それで、なんか斧持ってて」


「斧!?」


「そしてパートⅢではなんとホッケーマスクを被るの! オタクくんが被ってたのを殺して奪い取って!」


「ほ、ホッケーマスク? あとパートⅢって?」


「私、もう絶対ホラーは暗いところで一人では観ないわ……」


「ホラー……えっ? 映画ですか?」


「そうだけど?」


「あの、なんかヤバいやつに襲われそうになるとか追いかけられるとか、怖い目に遭ったんじゃ……」


「怖い目に遭ったわよ! 画面の向こうの登場人物を通して私が!」


「えっと、じゃあ、本当にホラー映画を観ただけであんなに錯乱してたんですか?」


「だってしょうがないじゃない! 本当に怖かったんだからぁ」


 全身が脱力してしまい、座ったまま体が後ろに倒れてしまう。陽香さんはそれでも僕の腕を離そうとしなかった。


「そもそも、苦手なら観なければいいじゃないですか。なんでそんな度胸試しみたいなことしちゃったんです?」


「煽られたからよ」


「煽る? 誰に?」


「……大学の頃の友達。久しぶりに通話してたら、『あんたってホラー苦手だったよね? 二年の頃にお泊りした時、なんでもないB級ホラーでもビビり散らかしてたもんね。どう? まだ苦手だったりしちゃうの?』って言ってきたのよ。これもう宣戦布告でしょ? だから私は部屋を真っ暗にして、言われた通りネトフリでその映画を探して観ることにしてやったのよ」


「はあ、なるほど……」


 うーん、と僕は腕組をして考え込んでしまう。


 なんて、こどもっぽい理由で大騒ぎしていたのだろう。


「まあ、なにはともあれ、事件に遭遇してなくてよかったですよ」


 思うところはあるけれど、陽香さんが安全とわかったのならそれでいい。


「落ち着くまでゆっくりしていってくださいね。帰りは部屋まで送っちゃいますから」


「えっ? あなた、まさか私このまま帰すつもり?」


 金のために奴隷商に売り渡そうとする人でなしを見るような視線を向けてくる。


「頭に凶悪な無敵の殺人鬼を住み着かせたままの女を、一人にしようと言うの?」


 そんな大げさな……。


「だからって、うちに泊まるわけにもいかないじゃないですか?」


「…………」


「えっと、いきません……よね?」


「…………ん」


 陽香さんは、タンクトップのすそを引っ張りながらきゅっと唇を一文字に結び、羞恥に悶えるような視線を向けて無言の抗議をしてくる。


「この恐怖は、今すぐ忘れられるものじゃないわ……」


「一応、僕は陽香さんの生徒なんですけど……」


「せ、生徒なら……」


 タンクトップのすそをゴムのようにぶんぶん引っ張る陽香さん。


「先生のこと、ま、守らないとダメでしょうが~……!」


 まるで長く呼吸を忘れたみたいに真っ赤で、瞳はしっとり濡れていて、涙の膜ができあがっていた。あとちょっとでも瞬きをしたら雫がぽろりと零れてしまいそうだ。


 これじゃまるで幼稚園児。駄々っ子のような陽香さんを目の当たりにする。


 平常時の陽香さんなら、どれだけ動揺してもこんな姿を見せることはないだろう。

 きっと、あまりの恐怖でパニックになり、理性の働きに致命的なエラーが出てしまっているに違いない。


「わかりました。今日は泊まっていってください……」


 根負けした僕は、陽香さんの要求を飲むことにした。


「ふふ、は、初めからそう言っておけばいいのよ! 素直じゃないわね!」


「急に強気になりますね」


「私は教師だもの」


「今さらカッコつけても遅い気がしますけど……」


「うるさいわね。ていうか、私の弱点知ったでしょ? 生徒に言いふらしたらあなたのこと粛清するからね」


「言いふらしませんよ」


「本当かしら?」


 陽香さんは、真実かどうか確認するためか、僕の顔を覗き込んでくる。

 照れくさくなって、顔を背けてしまう。


「あっ、目をそらしたわね」


「違います、ウソをついてるわけじゃありませんよ」


 そこまで心配しなくたって、言うはずがない。

 B級ホラーですら怖がってしまう陽香さんの可愛い部分を、フリー素材並に広く共有するなんて勿体ないにもほどがあるのだから。

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